剣崎砲台は、明治時代から昭和前期にかけて旧日本軍が首都東京や横須賀軍港を防衛するために整備した、東京湾要塞を構成する砲台群の一つです。
30数か所程度建設された東京湾要塞の砲台の中では比較的後半に整備された砲台で、大正13年に起工して、昭和2年に完成しました。
剣崎砲台があった剱崎周辺は、三浦半島の東京湾側の南端に位置しています。剣崎砲台は、東京湾の防御線が、富津-観音崎線から洲崎-釼崎線に変更・拡大されたことを受けて建設されました。
剣崎砲台には2基のカノン砲が設置され、直線距離で70mほど離れた場所に、それぞれの円形の砲座跡が残っています。現在は畑の中にあり、史跡として特別な保護はされていません。そのため、砲座跡のコンクリート製の遺構以外は、原型をとどめた姿で残しているものはほとんどありません。
また、剣崎砲台から数百mほど北に行った場所には、探照灯の格納庫とされる遺構が残っています。
なお、正しい地名は「剱崎」(読み方:つるぎざき)または「剱埼」(読み方:つるぎさき)ですが、この砲台の現役当時は「剣崎」または「剣埼」という名称も用いられていて、とくに、旧日本海軍には潜水母艦「剣埼」(読み方:つるぎざき)という軍艦もあったことから、当記事では「剣崎砲台」という名称で統一しています。
明治から昭和にかけては「剣崎」(読み方:けんざき、または、つるぎざき)という名称のほうが優勢でしたが、近年は、古来からの名称である「剱崎」(読み方:つるぎざき)が一般化しています。
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決して多いとは言えない現在目にすることができる遺構
砲台であれば、地上に観測所があり、目標物からは見えにくい地下や半地下の場所に弾薬庫や兵員の待機所となる施設がありますが、剣崎砲台跡ではそれらの遺構を目にすることはできません。周辺に関連すると思われる遺構の一部のみ、確認することができます。
周囲の状況から、戦後、畑として利用する際に、大半の施設が撤去または埋設されたものと思われます。
もしかしましたら、この場所が砲台であった一番の面影は、東京湾の入口を一望できる景色なのかもしれません。
三浦半島に残る東京湾要塞の遺構の中では、猿島や観音崎、千代ヶ崎の各砲台跡が当時の姿を比較的良好にとどめています。とくに、2021年10月から一般公開が開始された千代ヶ崎砲台跡は、長いあいだ海上自衛隊の送信所として利用され、送信所の廃止後も原則非公開だったことや、猿島や観音崎の各砲台より後に建設されたため完成度が高いこともあり、明治期の遺構としては保存状態がとても良いです。
こちらも畑の一角に残る大浦探照灯格納庫の遺構
剣崎砲台跡から北へ300mほど行った場所には、大浦探照灯格納庫の遺構が残っています。こちらも剣崎砲台跡と同様で、特別な保護はされていません。畑の一角に当時の格納庫が放棄された状態です。
探照灯は、いわゆるサーチライトのことで、夜間に、剣崎砲台から目標となる敵艦を探索したり計測したりする際に使用したり、敵の上陸地点の一つと想定される付近の海岸の監視などに利用されたものと推測されます。
剣崎砲台跡周辺の見どころ
このあたりの丘陵地から下った先にある入り江はどこもキレイなビーチで、アクセスが悪い分、たどり着いたときの満足感も高いと思います。