横須賀・馬堀町の浄林寺は、戦国時代(室町時代後期)の1505年(永正2年)に創建された浄土宗の寺院です。
防衛大学校や小原台に続く坂道の途中には馬頭観音堂があり、名馬「池月(生唼)」の像や「蹄の井跡」の碑、数多くの馬頭観音などが奉納されています。
浄林寺の本堂に安置されている馬頭観世音菩薩が三浦三十三観音霊場の第20番札所になっている他、本尊の阿弥陀如来が三浦薬師如来霊場の第5番、厄除延命地蔵尊が三浦三十八地蔵尊霊場の第29番となるなど、三浦半島の主要な巡礼地の一つになっています。
| 山号 | 七重山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 寺格 | ― |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 1505年(永正2年) または1589年(天正17年) ※「浦賀案内記」(1915年)や「大津郷土誌」(1981年)では後者の記載 |
| 開山 | 然蓮社廓誉上人智的 |
| 開基 | ― |
浄林寺・馬頭観音堂は、馬が掘った井戸から霊水が湧き出るようになったという言い伝えから、「馬堀」の地名の由来となった場所です。
現在の「馬堀町」は京急線沿いの東西に長い地域の地名ですが、旧大津村時代の古い町界による字名「馬堀」は、まさに、この浄林寺周辺のみを指す地名でした。
「馬堀海岸」は、昭和40年代に埋め立てによってできたまちで、この「馬堀」や「馬堀町」の前に広がっていた長い砂浜を持つ海岸に由来します。

INDEX
「馬堀」の地名の由来となった「蹄の井戸」の伝説

馬頭観世音菩薩は、仏教における六道のうち畜生道を救済される観音菩薩で、人間だけでなく鳥獣類も救済するため、馬の姿をしていると言います。
浄林寺の「馬頭観世音菩薩縁起」では、この地は古来より、その馬頭観世音菩薩が出現する霊地であったという言い伝えとともに、次のような逸話が語られています。
その昔、房総半島の嶺岡(現在の千葉県鴨川市南部。旧江見町のあたり)に凶暴な馬が現われ、海岸の洞窟に住み着いていました。村民はこの馬を「荒潮」と名付け、近寄るのを避けていましたが、田畑の作物を荒らすため困り果て、武器を持って追い払うことに決めました。
すると、馬は海中に飛び込み、三浦半島にたどり着きました。その逃げ延びた場所が今の馬堀の地にあたる松崎(馬着崎)だったと言います。
疲れ果てた荒潮は、小原台のふもとで起き上がることができないでいると、馬頭観世音菩薩が出現し、荒潮に柔和な性格となるよう悟らせました。これを機に荒潮は威風を備えた端麗な馬に生まれ変わると、傍らの岩を蹄で掘ったところから清水がこんこんと湧き出し、その水でのどの渇きを癒すことができたと言います。
後に、この湧水は「蹄の井戸」と名付けられ、今もなお枯れることなく、霊水が湧き出しています(飲料水ではありません)。

「宇治川の先陣争い」として有名な名馬「池月」
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この駿馬に生まれ変わった荒潮の噂を聞いた時の領主・三浦義澄は、金沢の六浦庄まで追って捕らえ、名馬に仕立てあげたのち、源頼朝に献上しました。頼朝はこれをとてもよろこび、「池月(生唼、生食)」と命名したと言います。
平安時代末期の1183年(寿永4年)、平家討伐をめぐる争いのなか、源頼朝と木曽義仲(源義仲)が戦った宇治川の戦いでは、頼朝から池月を与えられた佐々木高綱と、同じく名馬とされていた磨墨を与えられた梶原景季が敵陣への一番乗りを争った逸話は、「宇治川の先陣争い」として有名です。この先陣争いでは、佐々木高綱の乗った池月が勝っています。(諸説あり)
「池月(生唼、生食)」をめぐる言い伝えは、全国各地にあります。
たとえば、浄林寺に伝わる「馬頭観世音菩薩縁起」で池月の故郷とされる、南房総にもあります。1969年(昭和44年)発行の「鋸南町史」などの地誌では、おそらく、江戸時代に編さんされた「房総志料」や大正時代発行の「千葉県安房郡誌」といったより古い地誌の内容を参考にしながら、石橋山の戦いの後、源頼朝が房総半島に上陸した際の足取りを紹介しています。
これによると、源頼朝らは、内房に面した猟島(現在の安房郡鋸南町竜島)に上陸すると、三浦義澄を案内役に安房国の巡見に向かいます(三浦義澄は当時の三浦一族の当主で、一族は安房国にも所領を持っていたり、当地の豪族と婚姻関係を結んでいたりしていました。こうした自らの勢力圏と言える安房国で落ち合う段取りを、三浦一族は頼朝と事前につけていたとされています)。
猟島からは、池月(現在の鋸南町中央部の山間に位置する江月)、大崩、嶺岡を経て、外房に面した貝渚(現在の鴨川市の海沿いの町)に至るルートをとったとされています。
名馬「池月」は、このとき通った池月の旧家から献上されたもので、現在の「江月」という地名は、池月がなまったものだと言います。江月には「馬ノ住」という小字があったり、やはりこの巡見の通り道にあった、浄林寺の「馬頭観世音菩薩縁起」にも現われる嶺岡は、古くから近現代にいたるまで馬の放牧がさかんだった地域で、「日本酪農発祥の地」とされています。
浄林寺の近くに走水水源地があるように、馬堀も古くから湧水が出やすい土地だったと考えられます。湧水だったり馬の産地だったり、その土地の特色を歴史に結び付けた伝承というのは、時空を超えて、人々を魅了してやまない力を持っています。

馬に関する職業の関係者から広く信仰を集める浄林寺

現在の浄林寺は、海岸から少し離れた山すそに建っています。けれどもこの場所は、昭和40年代に宅地開発のため大津から馬堀一帯の海が埋め立てられるまでは、海水浴場にもなっていた馬堀海岸の東端に位置していました。
また、境内の横から走水海岸方面にはトンネル(走水第一隧道・第二隧道)が通されていますが、これも明治のはじめに走水水源地から横須賀軍港に水道を通すために掘られた水路隧道が前身です。このトンネルが通されるまでは、浄林寺の境内一帯に横たわっていた岬で馬堀と走水・鴨居方面は分断されていて、海岸線沿いを経由した行き来が困難な場所でした。
浄林寺のあたりは、かつての浦賀道(※)のルートからは少し外れています。
※東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」。聖徳寺坂から海岸線沿いに東へ向かっていた浦賀道は、現在の馬堀海岸駅の大津寄りにある矢ノ津坂で内陸に入り、浦賀へと続いていました。
しかし、明治時代以前、横須賀方面から走水や鴨居といった浦賀より北西側の村々に行く場合、大幅な遠回りとなる矢ノ津坂を通る浦賀道経由ではなく、浄林寺の前から山越えで向かう、現在の県立観音崎公園や防衛大学校周辺(小原台)経由のルートも使われていたと考えられます。
馬堀も、走水や鴨居も、このあたりは海に面した地域ではありますが、当然、荷物の運搬や人の長距離の移動には馬の力も利用されていたはずです。小原台の山越えの入口にある浄林寺は、馬の供養塔としての馬頭観音が集まる場所でもあったことでしょう。
馬頭観世音菩薩を祀るようになったのが先か、馬の供養塔としての馬頭観音を祀るようになったのが先かは分かりませんが、次第に馬を使った運送業や競馬関係者からの信仰も集めるようになっていったようで、浄林寺や馬頭観音堂の境内には数多くの奉納品や石仏、石碑が立ち並んでいます。

浄林寺・馬頭観音堂のその他の見どころ

浄林寺境内





馬頭観音堂境内
馬頭観音堂の境内入口に高くそびえる大イチョウは、晩秋、黄金色に色づくと、とても見ごたえがあります。


浄林寺・馬頭観音堂周辺の見どころ





