横須賀・岩戸の熊野神社は、三浦一族の佐原十郎義連の菩提寺・満願寺の隣りに鎮座する古社です。由緒については不明な点も多いですが、ほど近い場所にある佐原の御霊神社と並んで、佐原氏とゆかりの深い神社です。
平安時代末期の1180年(治承4年)、源頼朝が平家討伐の兵を挙げた際、源氏方についた三浦一族の本拠地・衣笠城は平家方の畠山重忠らに攻められます。
その際、衣笠城城主・三浦大介義明は、岩戸五郎に命じて、衣笠城からほど近い場所にあり、岩山に囲まれた要害の地にあった岩戸の地に老人や子どもらを避難させますが、神社は兵火によって焼失したと言います。
1185年(文治元年)には、佐原義連により、佐原家の守護神として社殿が再建されますが、平家討伐や奥州征伐による武功で手に入れた奥州・会津への領地拡大や、宝治合戦による三浦一族の滅亡などによって、岩戸と佐原氏との縁は遠のいていくことになりました。
しかし、岩戸の村民からの崇敬はあつく、その後も「佐原神社」として、地元の氏神様として祀られていたと伝えらえています。
主祭神 | 天照大神 応神天皇 大己貴命 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1157年(保元2年) |
祭礼 | 1月1日 元旦祭 8月 例大祭 4月 祈年祭 12月 新嘗祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
佐原義連の次男・盛連は、三浦氏宗家(本家)の三浦義村の娘・矢部禅尼と結婚しました。矢部禅尼が盛連に嫁ぐ前は鎌倉幕府第3代執権・北条泰時と結婚していた縁もあり、三浦氏宗家が北条氏に滅ぼされた宝治合戦では、佐原一族の一部は北条氏側に味方しました。そのため、佐原義連の孫、佐原盛連の子である盛時が、宝治合戦で滅んだ三浦氏を名乗り、再興していくことになります。
また、佐原義連の孫・光盛は蘆名氏を名乗り会津を領し、奥州を代表する名門となり、栄えていくことになります。
このように、鎌倉幕府創設後、比較的早い時期に凋落していった三浦一族の他の氏族と異なり、佐原氏の一族は争いの絶えなかった鎌倉時代を上手に渡り歩くことができました。これも、天照大神・応神天皇・大己貴命といったメジャーな神様を祀るこの神社のご加護があってのことなのかもしれません。
INDEX
佐原神社から熊野神社と呼ばれるようになった近世の岩戸の鎮守
江戸時代前期の寛永年間(1624年~1644年)、このあたりは熊野森と呼ばれるようになっていて、神社も「熊野三社大権現」と称していたと言います。
神仏分離令が出された明治維新後には「熊野大神」と称するようになり、1908年(明治41年)には旧岩戸村に鎮座していた神明社も合祀して、現在は「熊野神社」と呼ばれています。
神明社の合祀と同じころ、久里浜村内の旧内川新田に鎮座していた水神社が久里浜天神社へ合祀されたことにともない、水神社の旧社殿が熊野神社に移築されています(久里浜村は、1889年(明治22年)、八幡久里浜村・久村・内川新田・佐原村・岩戸村が合併して成立しました)。
伊勢・八幡・出雲の神様が集う熊野神社
以上は、概ね、1879年(明治12年)から1920年(大正9年)にかけて神奈川県がまとめた「明治12年 神社明細帳(三浦郡)」に岩戸村の村社・熊野社として記録された由緒をもとに記した内容です。
ここには、祭神として、天照大神・応神天皇・大己貴命の3柱がはっきりと記載されています。
熊野神社と言えば、一般的には熊野三所権現(伊邪那美尊・伊邪那岐大神・素戔嗚尊)のいずれか、あるいはそのすべてを主祭神として祀っていることが多いですが、岩戸の熊野神社の主祭神にはいずれも含まれておらず、伊勢神宮・八幡宮・出雲大社それぞれの御祭神としてよく知られている神様が祀られています。
ただし、熊野権現自体、数多くの神様の集合体のような側面も持っています。岩戸の熊野神社に祀られている天照大神は、熊野三所権現には含まれていませんが、熊野十二所権現と呼ばれる12柱の神様には含まれています。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」には、「熊野三社」という神社名で、岩戸村の鎮守であり、御神体として各木像が安置されていることが記されています。
なお、隣にある佐原義連の菩提寺・満願寺との関係についてはとくに記載が見られず、この当時の熊野神社は「村持」となっています。つまり、熊野神社が満願寺の鎮守であったり、満願寺が熊野神社を管理する別当寺というような関係ではなかったことが分かります。
これらのことをまとめると、もともと天照大神・応神天皇・大己貴命の3柱を祀っていた神社を、熊野信仰の流行とともに、江戸時代ごろから「熊野三社大権現」や「熊野大神」などと呼ぶようになったと考えるのが自然でしょうか。おそらく「新編相模国風土記稿」に見られる御神体の各木像というのも、この3柱を指しているのでしょう。
中世の、佐原神社などと呼ばれていた時代のことはよく分かりませんが、八幡神とされる応神天皇が祀られているのは源頼朝の有力な御家人だった佐原義連の関わる神社としてふさわしいですし、平家討伐で西国も飛びまわった佐原義連であれば、伊勢神宮や出雲大社の神様を勧請するということもありえそうなことです。