横浜金沢・六浦南の浅間神社は、京急逗子線の線路沿いに崖のように切り立った高台に鎮座する三艘地区の鎮守です。京急逗子線が開通する前(1930年(昭和5年)に湘南電鉄の路線として開通)の明治時代や大正時代の地図をみると、線路側のこう配は今よりなだらかでしたので、線路を通す際に境内の一部も削られて、現在のような地形になったとみられます。
参道の石段を昇りきり振り返れば、江戸時代、そこには「金沢八景」と呼ばれ、称えられた景勝地が広がっていました。今はもう、その面影はほとんどみられませんが、遠くに見える、現在の海岸線沿いにある野島や夏島の緑が、わずかに往時を偲ばせてくれます。
| 主祭神 | ― |
| 旧社格等 | ― |
| 創建 | 不詳 |
| 祭礼 | 例祭 9月上旬 ※実際の日にちは異なる場合があります |
1914年(大正3年)に平田恒吉氏が著わした「金沢と六浦荘時代」によれば、浅間社は、もと三艘の鎭守で、その傍には秋葉社も鎮座していたと言います。
浅間社と秋葉社が同所に祀られていたという記述は、江戸時代後期に編さんされた地誌「新編武蔵風土記稿」にも見られます。

かつての六浦湊・三艘に鎮座していた神社

「三艘」とは、現在の六浦南1丁目から六浦5丁目周辺にあった古い地名で、三艘町内会や三艘橋などにその名を留めています。中世にこのあたりに唐船が一度に三艘着いたから、あるいは、一艘ずつ三回に分けて着いたからというのが、地名の由来です。
現在はかなり内陸部にある土地ですが、中世には、今の平潟湾から続く入り江内側にあたるこのあたりに、「六浦津」や「六浦湊」などと呼ばれる、鎌倉の外港があったと考えられています。浅間神社はその六浦の港を望む小さな岬の先端に位置していました。この岬の西側には六浦に象が運び込まれたことにちなむ「象ヶ谷」という地名も残されていて、相当大きな船が出入りしていたことがうかがい知れます。
江戸時代になると、浅間神社の岬の前方では海岸線が遠ざかり、今の侍従川に沿うように、浦賀道(東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)が通るようになりました。三艘周辺にあった六浦の港は、近世には干潟のような状態になっていたとみられます。

富士山の気配を感じられない浅間社

浅間神社の由緒は不詳ですが、古くより交通の要衝にあったことから、村民や旅人のよりどころとして、長い歴史を歩んできたと考えられます。
一般的に浅間神社は、富士山を神格化した浅間大神や木花咲耶姫命が祀られていることが多く、六浦南の浅間神社も同様であると考えられます。その場合、富士山にみたてた山上に祀られるケース、富士山を望む場所に遥拝所として設けられるケース、境内に富士塚を祀っているケースなどがありますが、六浦南の浅間神社はいずれのケースも当てはまりません。方位的にもとくに富士山を意識したものではなさそうです。かつて富士塚があったという可能性は否定できません。
この他に、地理的要因であり得そうなのが、同じ入り江の入口に鎮座する、源頼朝が創建した瀬戸神社との関係です。やはり同じ入り江沿いに位置していた釜利谷の総鎮守・手子神社には、瀬戸神社の分霊を勧請して創建されたという由緒が伝えられています。木花咲耶姫命は、瀬戸神社の御祭神・大山祇神の子にあたるため、浅間神社の創建と関係があってもおかしくありません。
しかし、このような神話解釈がそれほど古くからあるものではないと考えると、飛躍しすぎと言えるかもしれません。
港や水辺にあったことから水の神として祀られていたものが、いつしか、火を鎮める浅間信仰に結びついたということも考えられそうです。かつて同所に、一般的に火伏せの神とされる秋葉社が祀られていたことを考えれば、富士山とは関係のない、このような解釈がいちばんしっくりくるのかもしれません。




