手子神社は、室町時代中期の1473年(文明5年)、釜利谷の領主・伊丹左京亮が瀬戸神社の分霊を勧請して創建したと伝わる、釜利谷郷の総鎮守です。
行政区分は時代によって変わりますが、江戸時代には、武蔵国久良岐郡釜利谷郷内に赤井村・坂本村・宿村の三村があり、釜利谷三村などとも称されていました。釜利谷郷/釜利谷三村の範囲は、現在「釜利谷」と名が付く、「釜利谷町」「釜利谷東」「釜利谷西」「釜利谷南」にほぼ該当します。
瀬戸神社前の平潟湾に浮かぶ小島には、琵琶湖の竹生島弁財天の分霊を勧請した琵琶島神社が鎮座しています。これにならうように、手子神社境内にも竹生島弁財天(小泉弁財天)が鎮座しています。
瀬戸神社は源頼朝が、琵琶島神社は北条政子がそれぞれ勧請したと伝えられていますが、これらをペアで釜利谷に勧請したのが手子神社&竹生島弁財天ということになります。
| 主祭神 | 大山祇命 |
| 旧社格等 | 村社 |
| 創建 | 1473年(文明5年) |
| 祭礼 | 7月17日に近い日曜日 夏季例大祭 10月15日 秋季例大祭(湯立神楽) ※実際の日にちは異なる場合があります |
手子神社の前を流れる宮川流域は、江戸時代に新田開発がはじまる前までは、平潟湾から続く大きな入り江になっていました。この入り江は「瀬戸入海」や「内川入江」などと呼ばれ、その風光明媚な景観から、景勝地「金沢八景」として知られるようになっていきました。
現在、竹生島弁財天は手子神社の社殿左手の崖をくり抜いた岩窟内に鎮座していますが、かつてはその波打ち際にたつ小さな岩山にあったと言います。
「金沢八景」の一つ「小泉夜雨」は、この海辺にあった竹生島弁財天周辺の景観とされています。「小泉」というのはこのあたりの古い地名で、竹生島弁財天の正式名称は「小泉山竹生島弁財天(小泉弁財天)」と言ったようです。

INDEX
かつての手子神社周辺の情景とされる金沢八景の一つ「小泉夜雨」

江戸時代前期に編さんされた鎌倉や金沢の地誌「新編鎌倉志」には「金沢八景(西湖の八景)」の一つとして、以下のような記載があります。
釜利谷村の内、手子の明神の北、鹽屋のある邊を、瀟湘夜雨と云なり。其所に、瀟湘夜雨松と云松あり。
「新編鎌倉志」(貞享2年(1685年))より抜粋
「手子の明神(手子明神社)」というのは、江戸時代までの手子神社の名称です。「鹽屋(塩屋)」は、塩焼き(製塩)をするための小屋のことで、平潟湾から続く入り江が塩田として利用されていたことを示すものです。「瀟湘夜雨」というのは、「金沢八景」のオリジナルとも言うべき中国・湖南省の景勝地「瀟湘八景」の一つで、瀟湘にしとしとと降る夜の雨の情景のことです。
神奈川県立金沢文庫の初代館長・関靖氏が著した「かねさは物語」(1938年(昭和13年))によれば、「小泉夜雨」の「瀟湘夜雨松」には、晴天の夜でも雫が落ちていたという伝説があり、それを夜雨になぞらえたものであると言います。
かつての竹生島弁財天は、この「瀟湘夜雨松」のそばに祀られていました。しかし、「かねさは物語」編さん当時にはすでに枯れていて、代わりの松が植えられていたようです。
また、入り江が埋め立てられた後も宮川のほとりという水辺にあった竹生島弁財天ですが、1940年(昭和15年)、海軍航空技術廠支廠建設のため手子神社境内に遷座されました。

創建の地「宮ヶ谷」と神社前を流れる「宮川」

創建当初の手子神社は、現在の鎮座地より北西に位置する宮ヶ谷にありました。江戸時代前期の1679年(延宝7年)に、手子神社を創建した伊丹左京亮の子孫で江戸・浅草寺の智楽院忠運権僧正が現在地に遷座したと言います。
伊丹氏は後北条氏(小田原北条氏)や徳川家康に仕えた釜利谷の領主で、旧坂本村の禅林寺に一族の墓があります。
宮ヶ谷も遷座後の場所も旧赤井村内にあたりますが、遷座後は旧宿村・坂本村との境に近い場所で、「釜利谷の総鎮守」を意識してか、釜利谷の中心とも言える場所に遷されたことになります。
宮ヶ谷は今の釜利谷東4丁目・6丁目周辺にあたります。現在の住所表記には存在しませんが、交差点名やバス停にその名を留めています。なお、江戸時代まで、手子神社(手子明神社)は、宮ヶ谷近くの満蔵院によって管理(別当)されていました。
「宮ヶ谷」という地名は、かつて手子神社があったことに由来すると考えられます。
現在、手子神社の前を流れる川も「宮川」と言いますが、江戸時代後期に編さんされた武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」によれば、これも手子神社に由来する名前です。


手子神社境内横の宮川沿いには、数多くの庚申塔が建っています。「新編武蔵風土記稿」には、当時の手子明神社近くの山上に庚申社が祀られていたことが記されています。この地域で庚申講が盛んだったことを示すもので、現存する庚申塔群もこの庚申社に関係するものと考えられます。

めずらしい「手子神社」という神社名の由来

「手子神社」という神社名はとてもめずらしいものですが、その由来についてははっきりとしていません。
「手子」というのは、大工や石工などの職人を補助する人のことを言います。武蔵国の武将で鎌倉幕府の有力御家人の一人だった畠山重忠は、本拠地であった武蔵国の秩父・金沢村から釜利谷周辺に鍛冶職人を呼び寄せたと伝えられています。時代は下りますが、「手子」は、この釜利谷に住み着いた鍛冶職人に関係がある可能性も考えられます。
また、漢字は違いますが、幼児のことを指す「手児」に由来する可能性も考えられます。この場合は、勧請元の瀬戸神社に対する「子」という意味合いになります。

黄葉が美しいイチョウの大木をはじめとした名木古木

手子神社の境内には、大木が多く残されています。周辺は宅地化されていますが、近くに高層住宅はあまりないことから、遠くからでも手子神社の鎮守の杜はよく目立ちます。
境内のイチョウ(2本)、タブノキ、トチノキ、ケヤキの計5本が、横浜市の名木古木に指定されています。
とくに、晩秋の手子神社はイチョウの黄葉が美しく、「釜利谷の総鎮守」にふさわしく、ほぼ釜利谷一円から探すことができるくらいの存在感です。



手子神社&竹生島弁財天周辺の見どころ





