金沢文庫は、鎌倉時代に北条実時(金沢北条氏の実質初代)が設けた日本最古の武家文庫です。その後も、金沢北条氏・顕時、貞顕、貞将の三代に渡って、蔵書の充実がはかられていきました。
現在は、鎌倉時代を中心とした中世の歴史博物館「金沢文庫」として、お隣りにある称名寺に伝わる貴重な資料を中心に、展示・保管されています。
その一部は、神奈川県立金沢文庫の公式サイトより、「国宝 金沢文庫文書データベース」として、オンラインで閲覧することができます。
INDEX
金沢文庫と徳川家康
鎌倉幕府の滅亡によって他の北条一門とともに金沢北条氏が滅んだ後は、金沢文庫は金沢北条氏の菩提寺であった称名寺の管理となりました。
室町時代以降、その称名寺も衰退が進んでいくと、金沢文庫の蔵書も散逸していくようになりました。
このような中、徳川家康によって江戸城内の富士見亭文庫に金沢文庫の蔵書の一部を移されたことが、よく知られています。家康は、日本で最初の武家政権である鎌倉幕府を築いた源頼朝を崇拝していて、自らの本姓も源氏と称していたとされています。このような逸話は、金沢文庫には鎌倉幕府に関わる書物が多く所蔵されていたと考えられることからも、その信憑性が裏付けられていると言えます。
鎌倉幕府の公式な歴史書として有名な「吾妻鏡」も、現在までに伝わるものの大部分は金沢文庫に所蔵されていたものが元であるとされています。「吾妻鏡」は全巻そろって見ることができず、現存する巻も、年単位で欠落している箇所のあることが知られています。
この「吾妻鏡」の「金沢文庫本」が徳川家康の手に渡り、「金沢文庫本」以外の「吾妻鏡」からも増補されたものが、現在一般的に見られる、いわゆる「北条本」と称される「吾妻鏡」であると見られています。
なお、「金沢文庫本」自体も原本ではなく写本であったと見られていて、家康の手に渡る時点ですでに逸脱がはじまっていたようです。
▼その他の横浜金沢の徳川家康ゆかりの地▼

金沢文庫復興の歴史
明治時代に伊藤博文などによって復興すると、1930年(昭和5年)には神奈川県立金沢文庫として神奈川県で最初の県立図書館となりました。
1955年(昭和30年)、横浜に神奈川県立図書館が新設されると、金沢文庫は県立博物館になりました。

「金沢」の地名の由来
神奈川県立金沢文庫の初代文庫長・関靖の研究によると、金沢北条氏や金沢文庫などの名前の元になった、「金沢」の地名の由来は、鍛冶職人が移住して来たことによると言います。鎌倉に幕府が開かれると、源頼朝の有力御家人であった畠山重忠が、本拠地である武蔵国の秩父・金沢村から、鎌倉の隣接地であるこの地に鍛冶職人を呼び寄せ、そのときに地名も移住して来たとされます。
畠山重忠は武蔵国の有力な豪族で、武蔵国の最南端であった現在の横浜市金沢区にも領地があったと見られています。区内の釜利谷にある東光禅寺には、畠山重忠の供養塔が残されています。
金沢文庫と称名寺を結ぶ二本のトンネル

現在の金沢文庫がある場所と称名寺の間は、低い山で隔てられています。その間はトンネルで結ばれていますが、そのすぐ隣には、中世の隧道(通行禁止)も残っています。
神奈川県立金沢文庫の表玄関は、車道沿いではなく、その裏側の、称名寺からのこのトンネルを抜けたところに設けられているのは、中世の金沢文庫に敬意を表わしているのかもしれません。
