海獺島(海鹿島、アシカ島)は、久里浜港のおよそ2km沖合に浮かぶ小さな無人島です。海獺島は二つの岩礁からなり、一方には海獺島灯台が建ち、付近を航行する船舶の目印になっています。もう一方の岩礁には波浪や風の観測を行うアシカ島観測所が設置されていましたが、現在は建物が撤去されています。
海獺島は、久里浜海岸からも遠望できる他、久里浜港と房総半島の金谷港を結ぶ東京湾フェリーの船上からも近づいて見ることができます。

海獺島(海鹿島、アシカ島)の名前の由来
海獺島(海鹿島、アシカ島)という島の名前の由来は、この場所にアシカが棲んでいたことによります。
江戸時代後期に編さんされた「新編相模国風土記稿」には「海鹿島」として掲載されていて、アシカがこの島に上り昼寝する姿が見られていた様子が伝えられています。また、アシカの肉は美味であることも紹介されていて、江戸時代中期の享保以後、近くに浦賀奉行所が置かれてからは、鉄砲によるアシカ狩が行われるようになったと言います。
現在、海獺島では、アシカの姿を見ることはできません。乱獲によるものということではなく、地球温暖化など、生息域の変化によるものでしょう。
「新編相模国風土記稿」ではまた、「海鹿島」周辺ではひじき(鹿尾菜)がよく獲れるということも書かれていて、「浦賀鹿尾菜」という名産品として紹介しています。
海獺島にほど近い久比里や浦賀では、現在もひじきや昆布、わかめなどの海産物が名産品として取り扱われています。
徳川埋蔵金伝説が残る早丸沈没の地

海獺島からさらに数百m沖合には笠島と呼ばれる浅瀬があります。海獺島や笠島周辺の暗礁地帯は、東京湾・浦賀水道近海で有数の海難事故発生ポイントとして知られています。横須賀海上保安部によると、この海域では、2015年までの10年間で6隻の海難事故が発生していると言います。
笠島は、普段は海中にあり、その姿を目視することはできませんが、笠島灯浮標というブイが設置されています。
このような海獺島~笠島の暗礁でもっとも有名な出来事が、幕末にこの場所で沈没した、当時の仙台藩が所有していた「早丸」の事故です。この海難事故では多くの人が犠牲になったと言い、久里浜港に近い伝福寺には早丸の慰霊碑が建てられています。
しかし、近年、海獺島や早丸の名前は、犠牲者の多さとは違う観点から注目を浴びるようになってきました。
早丸は、江戸無血開城の数日後というタイミングに、横浜港から出航しました。この船に数百両にも及ぶ幕府御用金が積まれていたため、これがいわゆる徳川埋蔵金であるという伝説が残されています。
(実在していたとしても機密事項であるということや、その歴史的背景から、信憑性の高い証拠はなく、都市伝説と言えるレベルのものです)
徳川埋蔵金については、江戸幕府の勘定奉行だった小栗上野介忠順が、自国である上野国(現在の群馬県)の山中に埋めたとする説が有力でしたが、昭和~平成期に行われた調査や発掘で進展が見られなかったことから、近年ではこの久里浜沖沈没説も注目されるようになったようです。
幕府御用金を動かすことができた小栗忠順は、満足な取り調べもされることなく早々に斬首されてしまいました。そのため、小栗が大量の幕府御用金を持っていたのかという事実や、徳川埋蔵金と言えるようなまとまった大金の存在自体が、歴史の闇に葬られてしまったと言えます。
小栗忠順と言えば、横須賀製鉄所の建設に代表されるような、日本の近代化に貢献した人物として知られていますが、その近くの海域ではこのような徳川埋蔵金の伝説も残しています。
海獺島(海鹿島、アシカ島)周辺の見どころ



