2024年7月5日から9日まで、メキシコ海軍の練習帆船「クアウテモック号」が横須賀港に寄港しました。今回の来日は、日本とメキシコの友好関係樹立415周年を記念してのことでした。
横須賀港に滞在中は「クアウテモック号」乗組員らによるガイドツアーが開催された他、入港していた海上自衛隊横須賀地方総監部・逸見岸壁を望むヴェルニー公園には、「海の騎士」と呼ばれる美しい姿を一目見ようとたくさんの見物客が訪れていました。
とくに、夜間ライトアップ(電灯艦飾)では、より一層その美しさが際立ち、ヴェルニー公園には、連日、明らかに仕事帰りという姿の人や遠方から駆けつけたという人が多く見られました。
このメキシコ海軍「クアウテモック号」の来日は、ネットニュースやSNSなどでその美しさやカッコよさが話題になりましたが、「日本とメキシコの友好関係樹立415周年」という部分がクローズアップされている記事や投稿はほとんど見受けられませんでした。
この記事ではその部分に光を当て、徳川家康の時代からはじまった、日本とメキシコの友好関係の歴史の一端をひも解いていきたいと思います。
INDEX
日本とメキシコの友好関係のはじまり
今回来日した2024年の415年前にあたる1609年は、和暦で言うと慶長14年です。江戸時代の最初期で、徳川家康が江戸幕府を開いて、まだ6年しか経っていないころです。しかし、すでに家康は征夷大将軍の職を辞していて、将軍は二代・秀忠の時代になっていました。
とはいえ、家康も「大御所」として健在で、とくに、幕府創設以前より外交顧問として仕えていたイギリス人・三浦按針(ウィリアム・アダムス)の存在もあり、江戸幕府の外交政策は引き続き家康が担っていました。
前ページのとおり、豊臣秀吉の命によって関東に移ってきた徳川家康は、自らの領地となった三浦半島の浦賀を国際貿易港にするべく、当時いずれもスペイン領だったフィリピンとメキシコを結ぶ定期航路を寄港させることに成功していました。
そんななか、1609年(慶長14年)、スペインの前フィリピン臨時総督であるロドリゴ・デ・ビベロ(ドン・ロドリゴ)の乗る「サン・フランシスコ号」が房総半島沖で難破して、上総国岩和田村の海岸(現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田)に漂着するという惨事が発生しました。
ロドリゴ総督一行は、次期総督と交代するため、当時としては大型の帆船3隻の艦隊でフィリピンからメキシコに向けて航海中でした。
このとき、ロドリゴ総督ら「サン・フランシスコ号」の乗組員は、岩和田村の村民や岩和田村を治めていた大多喜藩によって救命や手厚い保護を受け、乗員373人のうち317人が救助されたと言います。
この出来事が、日本とメキシコの友好関係のはじまりとされています。
今回のメキシコ海軍「クアウテモック号」の来日では、横須賀港に訪れる前に、まず最初に、かつて「サン・フランシスコ号」が座礁した御宿町沖に向かい、号令を撃って敬意を示しています。
三浦按針が建造した「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」
また、ロドリゴ総督は、大多喜藩藩主・本多忠朝(徳川四天王の一人である本多忠勝の次男)から徳川家康と面会する段取りを取りつけてもらうこともできました。
スペインやメキシコとの貿易を強化したいという思惑もあってのことでしょうが、家康は、三浦按針に建造させた大型帆船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」をロドリゴ総督一行に提供しました。翌1610年(慶長15年)、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」は浦賀からメキシコに向けて出航し、ロドリゴ総督一行は無事帰国の途につくことができました。
今回、メキシコ海軍「クアウテモック号」の滞在先として横須賀港が選ばれたのは、もちろん、海上自衛隊の基地があるということが一番大きな理由でしょうけれど、ロドリゴ総督一行が「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」で出航した浦賀に近いということも意識されていたのかもしれません。
向井将監忠勝も建造に協力した「サン・ファン・バウティスタ号」
その後、1611年(慶長16年)には、ロドリゴ総督一行の海難救助に対して謝意を伝える特使として、今度はスペイン領メキシコからセバスティアン・ビスカイノが日本に派遣され、徳川家康に謁見するなど、日本とスペイン/メキシコの交易は進展するかに見えました。
しかし、キリスト教(カトリック)の布教に重きを置いたスペイン側と通商に重きを置きたい家康の間には溝があり、さらに、この頃には、その影響力を無視できないくらい増加したキリスト教徒への抑圧もはじまり、日本とスペイン/メキシコとの交易はフェードアウトしていくことになります。
日本沿岸を探索中に、ロドリゴ総督と同様、暴風雨によって乗船を失っていたビスカイノは、伊達政宗の治める仙台藩で建造された帆船「サン・ファン・バウティスタ号」に乗って帰国の途につくことになります。
「サン・ファン・バウティスタ号」の建造にはビスカイノも協力したと言い、メキシコへは慶長遣欧使節も同乗しました。また、江戸幕府からは、三崎奉行でもあった向井将監忠勝らが建造に協力していて、ビスカイノの帰国や慶長遣欧使節の派遣には、徳川家康も間接的に協力していたことが分かります。
家康時代の友好関係が結実した日本初の平等条約
徳川家康が死没すると、日本はいわゆる鎖国の時代に入りましたが、1888年(明治21年)の日墨修好通商条約締結によって、日本とメキシコは正式に国交を樹立することになりました。(メキシコは1821年にスペインから独立しています)
これ以前にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと結んだ条約は、いずれも治外法権を認め関税自主権を持たない不平等条約でしたが、日墨修好通商条約は、日本にとってアジア諸国以外の国と結ぶはじめての平等条約となりました。(このとき日本全権として交渉にあたった陸奥宗光は、かつてメキシコに向けて慶長遣欧使節を送り出した伊達政宗と同じ伊達氏の出身です)
徳川家康の時代に築かれた友好関係が、この時代の新たな信頼関係にも影響を及ぼしていたのかもしれません。
メキシコ海軍「クアウテモック号」ガイドツアー
このように、日本とメキシコは、鎖国や敵対国となった第二次世界大戦中を除いて、長い友好関係の歴史を持っています。
メキシコ海軍士官候補生らによるガイドツアー
今回のメキシコ海軍「クアウテモック号」の来日にあわせて開催された船内のガイドツアーも、終始和やかな雰囲気で行われました。ガイドツアーでは「クアウテモック号」の乗組員が案内役となり、メキシコ大使館の関係者などが通訳を務め、1グループ10~20名くらいに分かれて船内をめぐりました。ガイドツアー中は随時質疑応答にも対応してもらえ、ときにユーモアを交えながら、どんな質問でも気さくに答えてくれていました。
「クアウテモック号」には、メキシコ海軍の士官候補生である海軍学校4年生96名ら261名が乗船していて、ガイドツアーの案内役もこの士官候補生らが務めました。
「クアウテモック号」建造の歴史
「クアウテモック号」は、メキシコ海軍練習船として、スペイン・ビルバオにあるセラヤ造船所で建造され、1982年7月に進水し、同年9月にはじめてメキシコへ入港しました。
「クアウテモック号」は全長:約91m×横幅:約12mで、1984年に住友重機械工業株式会社浦賀工場(浦賀ドック)で建造された日本の練習帆船「日本丸(2代)」の全長:約110m×横幅:約14mよりひとまわり小さいサイズです。とは言え、帆船としては十分大きな部類に入ります。
アステカ帝国最後の皇帝から名づけられた船名
船名となっている「クアウテモック」とは、スペインによる植民地支配を受ける前にメキシコ中央部で栄えたアステカ帝国最後の皇帝の名前です。クアウテモックはメキシコの国民的英雄で、「急降下する鷲」を意味する名前です。鷲は、メキシコの国章や国旗にも描かれています。
「クアウテモック号」の船首には、クアウテモックの肖像が誇らしげに掲げられています。
船内随所で見られる「クアウテモック号」の紋章
「クアウテモック号」の船内では、いたるところでその特徴的な紋章が見られます。
「クアウテモック号」の紋章は、以下のような要素で構成されています。
- 中央の帆船は、西に向かって航行する「クアウテモック号」の左舷側のシルエット。祖国への最初の航海を表わしている。
- 同心円のもっとも外側は、帆船の索具として用いられるアバカロープを模したもの。
- 同心円内の上部には「メキシコ海軍」、下部には「クアウテモック練習船」の文字が刻印。
- 同心円内の右側(東側)には風の神「エヘカトル」が船を西に進むよう息を吹き込む姿が、左側(西側)には太陽が描かれている。
美しさをより際立たせた夜間ライトアップ
「クアウテモック号」は、横須賀港に入港中は満艦飾が施され、夜間はライトアップ(電灯艦飾)も行われていました。
また、出航の際には、乗組員がマストに昇り表敬の意を表わす登檣礼の儀式も行われました。