白赤稲荷神社は、横須賀・田浦大作町の谷戸奥を登ると、朱の鳥居が作るトンネルの先に現われる、京都・伏見稲荷大社の分霊が祀られた神社です。鳥居の数は、およそ50本にもおよびます。
本社は安浦町にあり、伏見稲荷大社附属講務本庁の横須賀支部として活動されています。五穀豊穣を司る神様として、商売繁盛の守護神として、稲荷社の存在はめずらしいものではありませんが、稲荷信仰の総本宮である京都・伏見稲荷大社と直結しているのは、三浦半島では白赤稲荷神社だけです。
主祭神 | 稲荷大神 |
旧社格等 | ― |
創建 | 1966年(昭和41年) |
祭礼等 | 3月初午の日 初午大祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
それほど多くの人が立ち入らない山奥に、突如として現われる朱色の鳥居のトンネルは、まるでジブリ映画に出てきそうな場所として密かな人気を集めています。神聖な空気が流れるこの鳥居のトンネルをくぐり抜けると、異世界に続いていそうな、不思議な感覚におそわれます。

INDEX
登り口に建つ「伏見白赤稲荷大神」の扁額がかかる一の鳥居

「伏見白赤稲荷大神」という扁額のかけられた一の鳥居は、田浦大作町の谷戸深くにある、白赤稲荷神社の登り口に建っています。
白赤稲荷神社の登り口には小さな駐車場も用意されていますので、ふもとまでは車でアクセスすることも可能です。ただし、駐車場までの道もかなり狭い箇所がありますので、車での参拝はあまりおすすめはしません。
ここから朱の鳥居のトンネルまでは、ゆっくり歩いて15分ほど山道を登って行くことになります。一般的な神社の石段とはまったく違い、山道ですので、参拝にはハイキング以上の装備で臨む必要があります。


田浦の谷戸を遠くに望む朱の鳥居のトンネル入口

参道の山道をしばらく登ると、少し開けた耕作地が現われます。この耕作地をまわり込むようにもう少し進んで行くと、林の中に朱の鳥居のトンネルが見えてきます。
朱の鳥居のトンネルの前方は一段下がったところに耕作地が広がっていて、さらにその先には、眼下に田浦の谷戸が続いているのが見えます。
鳥居の前方には、石段も参道もなく、ただ里山の風景が広がっているだけで、これはこれでめずらしい空間です。


山腹に鎮座する白赤稲荷神社の社殿

およそ50本の朱の鳥居のトンネルを抜けると、白赤稲荷神社の社殿が現われます。拝殿の奥には、朱塗りの本殿が鎮座しています。拝殿の前には、稲荷神社らしく、狛狐がお祀りされています。
朱の鳥居のトンネルの合間には、本祠大神の碑やお百度石が建っていて、信仰の場らしい神聖な空気が感じられます。






三浦アルプス(二子山山系)につながる白赤稲荷神社の山上
朱の鳥居のトンネルに向かう少し手前には、さらに山の上の方に登って行く分岐があります。朱の鳥居のトンネルのほうには進まず、この分岐を右側に登って行くと、三浦アルプス(二子山山系)の周遊コースにつながっています。
最初の大きな分岐(下の写真参照)を右に行けば港が丘(京急田浦駅)方面、左に行けば乳頭山(矢落山)を経由して三浦アルプス南尾根方面、あるいは、馬頭観音経由で沼間(東逗子駅)方面や二子山方面などに行くことができます。

白赤稲荷神社と長尾山善応寺の十一面観音
白赤稲荷神社が鎮座するあたりは、その昔、「善応」と呼ばれていたと言います。善応という地名は、奈良時代にこのあたりを治めていた長尾左京大夫善応に由来すると考えられます。
山を背に田浦大作町と隣接している、逗子・沼間の法勝寺には、次のような言い伝えが残されています。
村人たちが近くの海に現われる七つの頭を持った大蛇に苦しめられていることを知った長尾善応は、この地を訪れていた高僧・行基に大蛇退治を懇願します。行基は十一面観世音菩薩像を三日三晩で彫りあげると、それを持って大蛇のいる海に出て、お経を唱えました。すると、大蛇は心を入れ替えて、今度は、村人たちを疫病や災いから救う守り神になったと言います。
その後、行基の造った十一面観世音菩薩像は、沼間のもっとも川上に建立された長尾山善応寺に祀られました。善応寺はかなり昔に廃寺となって今は見られませんが、これが沼間の法勝寺のはじまりと伝えられています。
「沼間のもっとも川上」というのは、白赤稲荷神社が鎮座する山腹から山頂を越えたちょうど反対側にあたります。今では横須賀市と逗子市に行政上は分かれていますが、かつて善応寺のあったあたり一帯を、「善応」と呼んでいたのでしょう。
明治維新までの神仏習合の時代、稲荷神の本地仏(神の本来の姿とされた仏)は十一面観音とされることがあったと言います。
白赤稲荷神社の創建は昭和期のことですので、偶然なのでしょうけれど、この地に稲荷大神が勧請されたのは、かつて善応寺にあった十一面観音の導きだったのかもしれません。
