長浦神明社は、かつて箱崎半島に鎮座していた、横須賀・長浦町内の鎮守です。箱崎半島に鎮座していたころは、箱崎地域の鎮守として「箱崎明神」と呼ばれていました。
「箱崎半島」は、横須賀港と長浦港を隔てる東京湾に面した半島でしたが、現在は新井掘割水路によって分断されて、「吾妻島」と呼ばれる島になっています。
箱崎明神と呼ばれていた神明社でしたが、明治前期に社地が旧日本海軍の用地となって買収されたため、箱崎の地から離れることになりました。現在の長浦町5丁目の山すそに鎮座地が落ちついたのは、1950年(昭和25年)のことです。
長浦神明社が鎮座する長浦町5丁目周辺(長浦自治会区域)は、箱崎明神の氏子にとっての移住先でもあった地です。
| 主祭神 | 大日孁貴命(天照大御神) |
| 旧社格等 | ― |
| 創建 | 959年(天徳3年)頃 |
| 祭礼等 | 4月 春季例祭【春祭り】 8月上旬の日曜日 例祭【夏祭り】【湯立神楽】 ※実際の日にちは異なる場合があります |
はじめ箱崎半島に鎮座していた神明社は、1880年(明治13年)、横須賀軍港の拡張によって社地の箱崎が旧日本海軍に買収されたため、長浦字西の浦に遷りました。その後、横須賀線の線路増設によって参道が断たれたため、1950年(昭和25年)、さらに、かつての箱崎半島の付け根にあたる現在地に遷されました。
INDEX
伊勢・熊野から移住した鈴木氏によって創建されたと伝わる神明社

長浦神明社の創建については、詳しい記録が残っていません。江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」には安土桃山時代の1595年(文禄4年)に勧請されたとあります。
しかし、社伝によると、これは大檀那・鈴木雅楽助によって再建された際の棟札の記載であって、実際にはこれよりもずっと古い、平安時代中期の959年(天徳3年)ごろの創祀であると言います。
現在でも、長浦町の旧い家には鈴木姓が多く見られますが、古来、鈴木氏の祖先が伊勢・熊野方面から移住して来て、天照大神を祀ったと言うのです。鈴木姓の発祥の一つは紀伊半島とする説があり、同じ三浦半島の長井にも、熊野水軍の将だった鈴木氏が移り住み、熊野神社や住吉神社を創建したという伝承があります。

旧日本軍の影響で移転を余儀なくされた長浦村の神社たち

かつての箱崎半島、現在の吾妻島は、その全域が軍の施設となったため、鎮座していた神社だけでなくそこで暮らしていた住民たちも集団で移転しました。現在の吾妻島は、全域が米海軍の吾妻倉庫地区となっていて、明治時代に旧日本軍の用地となって以降、現在に至るまで、100年以上に渡り立入禁止の状態が続いています。
このように、旧日本軍の都合によって移転を余儀なくされるというケースは、横須賀市内では決してめずらしいことではありませんでした。現在、米海軍横須賀基地の主要施設が集まる橫須賀軍港地域(橫須賀市楠ヶ浦町・泊町・稲岡町)から田浦・長浦地域までの沿岸部はとくにその傾向が強く、ほぼすべてのエリアで影響を受けました。
長浦神明社の近くには、境内横から参道がつながっている吾妻社と、同じ長浦町の神明社であり田の浦地域の鎮守である田ノ浦神明社(長浦神社)が鎮座しています。いずれも、旧海軍の用地となったため、旧長浦村の沿岸部から、内陸部の丘陵地に遷ってきた旧い歴史を持った神社です。
それぞれ、境内は少々窮屈そうではありますが、遷宮前の時代からの古い奉納品なども大切に使われてきているのが見受けられ、事情を知らなければ、ずっとこの場所でお祀りされてきたようにも見えます。もちろん、移転先地域の方々にも受け入れられてきたからこそ今の姿があるわけですが、神社とともに移住して来た氏子たちの旧社地への思いも感じずにはいられません。




長浦神明社周辺の見どころ



