大明寺は、鎌倉時代、日蓮聖人に帰依した土地の豪族・石渡左衛門尉則久が、米ヶ浜(現在の横須賀市深田台、米が浜通の周辺)の山上に建立した、三浦法華堂(御浦法華堂、現在の龍本寺)を前身に持つ寺院です。
米ヶ浜は、日蓮が、生誕の地である房総半島から鎌倉をめざして三浦半島へ舟で渡った際に滞在した、日蓮宗最初の霊場とされる地です。
その後、石渡左衛門尉則久の子・平三郎則次(または、則次の子で第6世・日栄)が、三浦法華堂をより大きな寺院にしようと、土地の狭い米ヶ浜から三浦半島の内陸に位置する金谷(現在の横須賀市衣笠栄町)に移転させたのが、現在の大明寺(当時は大妙寺)のはじまりです。
あるいは、鎌倉・松葉ヶ谷の法華堂(現在の、鎌倉の妙法寺・安国論寺・長勝寺、京都の本圀寺、それぞれの前身)の日静に帰依した石渡平三郎則次が、自らの子を日静の弟子・日栄として、その日栄を開山に迎えて自邸を寺としたことが大明寺のはじまりとする伝承もあります。
山号 | 金谷山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 三宝本尊像 |
創建 | 1253年(建長5年) ※前身の三浦法華堂の建立年 |
開山 | 日蓮 中興開山:日栄 |
開基 | 石渡左衛門尉則久 |
大明寺の前の通りは、隔年で開催されている「衣笠さくら祭 三浦一党出陣武者行列」のコースになっていて、例年、大明寺はその折り返し地点となります。(スタートは衣笠十字路付近)
大明寺はパレード中間地点の休憩所も兼ねていて、三浦一族の武将に扮した参加者たちの記念撮影スポットにもなっています。
太田道灌の一族と大明寺
大明寺は、京都・本圀寺の有力な旧末寺の一つで(それぞれ、かつての寺名は、大妙寺と本国寺)、「三浦本山」という別称もあります。
本圀寺第13世で、大明寺第11世となった日遵は、室町時代から戦国時代にかけて活躍した武将・太田道灌の子で、このような縁もあり、大明寺は、相模国守護の扇谷上杉家を筆頭重臣(家宰)として補佐した太田家とも関係が深かったようです。
太田道灌の子で、日遵の兄にあたる太田資康は、大明寺に葬られたと伝えられています。資康は、北条早雲(伊勢宗瑞)に攻められていた自身の妻の実家である相模三浦氏(資康の妻は相模三浦氏・当主の三浦道寸(義同)の娘)を救援するため、居城である江戸城から三浦半島に向かいますが、早雲の軍勢に敗れて戦死しています。
江戸時代になると、大明寺は三浦半島における不受不施義(日蓮の教えの一つで、法華経を信仰しない者から施しを受けず供養も施さないこと)の拠点となり、これを禁教とした江戸幕府や、本山・本圀寺から弾圧を受けるようになりました。
大明寺の住職も追放となりますが、太田道灌の末裔で遠江浜松藩藩主の太田資宗(資宗の叔母は、徳川家康の側室・英勝院とされています)による取り計らいで、浜松・宗林寺の日成が大明寺に入り、寺の存続の危機を救っています。
このように、中世にはじまった大明寺と太田道灌の一族との関係は、近世に入ってもなお続いていたことがうかがい知れます。
大明寺境内の見どころ
大明寺は、最盛期には、三浦半島を中心に30以上の末寺を擁し、広大な伽藍をほこる大寺院でした。
現在の伽藍は、仁王門を除いて、1886年(明治19年)の火災後に再建されたものです。
冠木門
仁王門
大明寺の仁王門は、明治期の火災を免れた唯一の伽藍で、その名前のとおり、仁王像が安置されています。
本堂
現在の本堂は、1898年(明治31年)に再建されたものです。
大明寺の本尊・木造三宝本尊像(横須賀市指定重要文化財)が安置されています。多宝如来像は室町時代の1399年(応永6年)に造立されたもので、対を成す釈迦如来像も同じころに造立されたものとみられています。