冷泉為相は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人です。鎌倉での別邸が、扇ヶ谷(亀ヶ谷)の支谷の一つ・藤ヶ谷にあったことから、「藤谷黄門」や「藤谷殿」とも呼ばれていました。
冷泉為相の墓は、藤ヶ谷の南側にあたる泉ヶ谷に位置し、「泉谷山」の山号を持つ、浄光明寺境内の裏山にあります。浄光明寺の本尊・阿弥陀三尊像が安置されている収蔵庫などとともに、木曜日・土曜日・日曜日・祝日のみ一般に公開されています。(雨天と多湿の日、および8月は、拝観中止)
冷泉為相の墓は、鎌倉時代末期から南北朝時代の様式を良く示す宝篋印塔であることから、浄光明寺境内とともに、国指定史跡になっています。
冷泉流歌道を相伝する冷泉家の始祖
冷泉為相は、中世から近世にかけて公家・華族として朝廷や幕府に仕え、現在も冷泉流歌道などの有職故実を今に伝える冷泉家の始祖(初代)です。「冷泉」という名前は、後年住んだ鎌倉の藤ヶ谷にちなんで藤谷黄門と呼ばれたのと同様、京都の住まいが冷泉小路にあったことに由来します。
明治維新後、京都から東京に遷都されると、ほとんどの公家は天皇にお供して京都から東京に住まいを移しました。しかし、冷泉家は京都御所の留守居役を仰せつかったため、1606年(慶長11年)から住む京都の旧公家町に残りました。京都の冷泉家住宅(冷泉家時雨亭文庫)は、完全な姿で現存する唯一の公家屋敷として、国の重要文化財に指定されています。
冷泉為相の祖父は、「小倉百人一首」や「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」の撰者として知られる歌人・藤原定家です。母は、「十六夜日記」の作者として知られ、やはり歌人の、阿仏尼です。
「十六夜日記」は、冷泉為相の父・藤原為家の死後に為相と異母兄の為氏との間に発生した相続問題を解決するために、阿仏尼が幕府のある鎌倉へ下った際に記した紀行文と鎌倉での滞在記からなる日記です。
冷泉為相自身も母・阿仏尼を追ってたびたび鎌倉を訪れるようになり、鎌倉に移り住むようになります。鎌倉幕府第9代執権・北条貞時や鎌倉幕府第8代将軍・久明親王主催の歌会に参加するなど、鎌倉歌壇の指導者としても活躍しました。和歌・連歌を通じて幕府とも親しくした冷泉為相は、両方に似た記事が存在することから、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」編さんのために、祖父の藤原定家が記した日記「明月記」を提供したと考えられています。
扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷
扇ヶ谷(亀ヶ谷)は、藤ヶ谷や泉ヶ谷などのいくつもの支谷を持つ、鶴岡八幡宮境内の西側にある谷戸です。今ではJR横須賀線の線路で分断されているため分かりにくいですが、かなり広範囲を示す地名です。
冷泉為相の母・阿仏尼の墓とされる石塔も、冷泉為相の墓や浄光明寺とはJR横須賀線の線路を挟んだ反対側の、寿福寺や英勝寺の北側にあります。
冷泉為相の墓がある浄光明寺境内は南側に開けていて、浄光明寺の裏山にあたる冷泉為相の墓の前からは、鎌倉の市街地や由比ヶ浜の海を望むことができます。