龍本寺は、鎌倉時代、日蓮聖人が、生誕の地である房総半島から鎌倉をめざして三浦半島へ舟で渡った際に滞在した米ヶ浜(現在の横須賀市深田台、米が浜通の周辺)に建立された、御浦法華堂(三浦法華堂)を前身に持つ寺院です。近隣では、「米ヶ浜のお祖師さま」と呼ばれて親しまれています。
また、立宗・布教のために旅立って以降、日蓮を開山に仰ぐもっとも古い寺院のため、日蓮宗最初の霊場とも言われています。(一般的には、日蓮宗最古の寺院は、鎌倉の妙本寺とされています)
山号 | 猿海山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 日蓮聖人像 |
創建 | 1253年(建長5年) |
開山 | 日蓮 |
開基 | 石渡左衛門尉 |
現在の龍本寺は、海岸線からはだいぶ離れた内陸の切り立った高台の上に建っています。明治前期まではこのすぐ下まで海が迫っていて、この海岸は「米ヶ浜」と呼ばれていました。
日蓮は、海路で米ヶ浜に到着すると、海岸にあった岩窟の中で37日間に渡って祈願した後、鎌倉へと旅立って行ったと伝えられています。
龍本寺の崖下には、この岩窟の跡とされる場所が今も残っていて、「お穴さま」として親しまれています。お穴さまへは、龍本寺境内から階段で降りられる他、横須賀中央の下町方面からも、横須賀共済病院の裏手から登ってお参りすることができます。
日蓮を救った「アワビ」と「角なしサザエ」の伝承
日蓮が鎌倉をめざして三浦半島へ船出した際、嵐のため、舟底に穴があいて海水が侵入してきたと言います。この時、日蓮がお題目を唱えると、一時に風波が静まり、舟底の穴もふさがっていました。これは、舟底の穴に「アワビ」が密着していたためと伝えられています。
その後、日蓮を乗せた舟は、現在の東京湾に浮かぶ「豊島」にたどり着きました。すると1匹の白猿が近づいてきて、日蓮の衣の裾を引いて、陸の方を指しました。日蓮は白猿が指した陸の方へ再び船出しましたが、浅瀬の海岸だったため、進みかねていました。そこへ一人の男が現われると、日蓮を背負って米ヶ浜の岸辺までお連れしたと言います。
男の足から血が流れているのを見た日蓮は、人々が「サザエ」の角で傷つくことがないようにお題目を唱えました。それ以降、この辺りで獲れる「サザエ」には角がなくなったと伝えられています。
これらの、日蓮を救った「アワビ」と「サザエ」は、龍本寺の寺宝として大切に護られてきていると言います。
龍本寺の本堂の彫刻には、寺名にも含まれている、立派な「龍」が彫られています。よく見ると、この龍は「角なしサザエ」を握っているのが見えます。
また、日蓮がたどり着いた「豊島」とは現在の「猿島」のことで、「猿島」の名前の由来は、この、日蓮を無事に米ヶ浜へ導いた白猿の伝説によるものとされています。(諸説あり)
日蓮に帰依して御浦法華堂を建立した石渡左衛門尉
このとき、米ヶ浜の海岸で日蓮を救ったのが、後に、日蓮に帰依して、龍本寺の前身である御浦法華堂建立の中心人物となる、石渡左衛門尉則久です。則久は、日蓮が米ヶ浜に渡来する前日の夜、夢の中で、東方より高貴な方が訪れるというお告げを聞いたため、朝から海を見ていたところ、日蓮の乗る舟が現われたと言います。
第六世・日栄の時、石渡左衛門尉則久の子・則次が、御浦法華堂をより大きな寺院にしようと、土地の狭い米ヶ浜から三浦半島の内陸に位置する金谷(現在の横須賀市衣笠栄町)に移転し、金谷山大明寺(移転当初は大妙寺)と改称しました。これにより、御浦法華堂(龍本寺)は大明寺の奥の院という位置づけとなり、その後も、大明寺と龍本寺は、日蓮宗の旧本山と旧末寺という関係が続いていくことになります。
なお、江戸時代後期基準で、龍本寺は深田村、大明寺は金谷村にありましたが、深田村も金谷村も公郷村より分村した村になります。猿島も、公郷村に属していました。
米ヶ浜出立後の日蓮の鎌倉での草庵跡
しばらくの間、石渡左衛門尉らの庇護を受けた後、日蓮は、幕府が置かれ、当時の国の中心地であった鎌倉をめざして旅立ちました。無事に鎌倉入りを果たした日蓮は、鎌倉の東端に位置する松葉ヶ谷(名越)で草庵を結び、自らの教えを布教していくことになります。
この鎌倉の草庵跡については、松葉ヶ谷に隣接して建つ、妙法寺、安国論寺、長勝寺の三寺それぞれに、伝承が言い伝えられています。