船越神社は、京急田浦駅からJR田浦駅方面へ徒歩で10分ほど歩いた、国道16号沿いの高台に鎮座する神社です。
明治のはじめに、国道16号を挟んだ斜め向かい側に建つ景徳寺境内で祀られていた熊野社をこの地に遷宮して、昭和のはじめに、泥亀新田(現在の金沢文庫駅から金沢八景駅周辺)の開拓者としても知られる永島家によって船越新田(現在の船越商店街から東芝ライテックにかけての海沿いの土地)の鎮守として祀られていた日枝神社と合併し、さらに、神社名も船越神社に改められて、現在に至ります。
旧熊野社は、南北朝時代の1369年(応安2年)に、景徳寺建立に際し地主神として、紀州・熊野速玉神社より分霊を勧請して創建されたと伝えられています。
永らく景徳寺境内に鎮座していましたが、明治維新後の神仏分離令により、景徳寺の管理を離れ、現在地に遷宮されました。
現在地に遷った後、初期の熊野社は、1879年(明治12年)に、旧六浦藩藩主の米倉家より寄進された三光社の社殿を移築して使用していました。
これが老朽化してきたため、昭和初期に氏子からの寄付(敬神一銭会)などにより社殿の新築が計画され、神社名が船越神社に改められる前年の1933年(昭和8年)に完成しました。その後、熊野社の旧社殿は、神輿庫として使用されています。
主祭神 | 旧熊野社:速玉之男命 旧日枝神社:大山咋命 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 旧熊野社:1369年(応安2年) 旧日枝神社:1871年(明治4年) ※船越神社となったのは1934年(昭和9年) |
祭礼 | 1月1日 歳旦祭 2月節分 節分祭 2月初午の日 初午祭(末社・稲荷社) 6月30日 大祓式 7月第3土・日曜日 夏季例大祭 9月19日 秋季例大祭 12月2日 酉の市 12月31日 大祓式 毎月9日 月次祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
船越神社の境内は、比較的広い、恵まれた土地にあるということと、現在地に遷座してから、神社としては歴史が浅いということもあり、他のどの三浦半島の神社とも似ていない、独特な雰囲気があります。
昭和初期の船越神社は、周囲を、横須賀海軍工廠造兵部(現在の東芝ライテック)、横須賀海軍工廠長浦職工共済会病院(後の横須賀北部共済病院。2015年に閉院)、船越公園(現在の船越一丁目公園)に囲まれていました。現在はそれぞれかたちを変えていますが、大まかな区画割りは変わっていません。
まちなかの、大きな区画の土地に囲まれた神社と言う環境が、少なくとも三浦半島ではあまり見られないため、船越神社ならではの独特な雰囲気を作っているのかもしれません。
INDEX
江戸から明治にかけて金沢の永島家によって開発された船越新田
横浜市金沢区と横須賀中心部のちょうど中間に位置する船越神社周辺は、その両方の地域から影響を受けてきました。
江戸時代前期の寛文年間にこの辺りの入り江を船越新田として開発しはじめたのは、金沢・泥亀新田の開拓者である永島祐伯泥亀の一族でした。
1871年(明治4年)には、永島家の第9代・永島忠篤亀巣が、地元・金沢で祀っていた東京・日枝神社の分霊を字船越梅田に移して、船越新田の守り神としました。
船越新田は、江戸時代後期には田浦村の字船越から独立した村として扱われるようになっていましたが、明治のはじまりまで新田内に住む者はほとんどありませんでした。水田を耕す者は、周辺の田浦村などから来ていたと言います。
また、社殿を寄進するなど、明治前期に神仏分離令によって景徳寺から独立した熊野社を支えたのも、旧六浦藩(現在の横浜市金沢区)藩主の米倉家でした。
横須賀海軍によって景色が一変した戦前の船越神社周辺
のどかだった船越神社周辺の風景を一変させたのは、横須賀軍港の存在でした。
横須賀港には、幕末に、当時、江戸幕府の勘定奉行だった小栗忠順(小栗上野介)の進言により、フランス人技師レオンス・ヴェルニーを首長に招いて、横須賀製鉄所の建設が開始されました。明治維新後は新政府に接収され横須賀造船所となり、1884年(明治17年)には旧日本海軍・横須賀鎮守府直轄の横須賀海軍工廠となりました。(横須賀製鉄所も、横須賀海軍工廠も、いわゆる「造船所」のことです)
このように、横須賀軍港の重要性が増していくのに比例して、その規模も拡大し、おのずと、隣接した田浦村にも海軍の施設が置かれるようになっていきました。
1882年(明治15年)には船越新田が永島家などから海軍用地として買収されて、船越神社境内の目の前には兵器製造工場ができました。
後にこの兵器製造工場は横須賀海軍工廠造兵部となり、1915年(大正4年)には、その職工や家族を対象とした横須賀海軍工廠長浦職工共済会病院が開院しました。この長浦職工共済会病院は、船越神社の南側の山を切り崩して、何度かの増改築や名称の変更をしながら、船越地区の海軍施設の拡張とともに本格的な総合病院へと発展していきました。
戦後、横須賀海軍工廠造兵部は東芝横須賀工場(1989年からは東芝ライテック横須賀工場、2009年には本社機能が横須賀工場に移転)、横須賀海軍工廠長浦職工共済会病院は横須賀北部共済病院(2015年に閉院)となりました。昭和初期から平成にかけての船越神社周辺の景色は、平和な世の中にはなりましたが、明治初期から昭和初期までの劇的な変化に比べると、大きな変化はなかったと言えるでしょう。
船越神社の裏山にあった船越公園
かつての船越神社境内は船越公園を有する丘陵地の中腹にありました。この船越公園には、戦時中には軍の防空施設が置かれていました。
この船越神社の裏山にあたる船越公園の山は、平成期に切り崩されて、現在は船越一丁目公園と「港が丘」と名づけられた住宅地になっています。
忠魂碑
船越公園の山頂には、1916年(大正5年)に、当時の田浦町出身者の戦没者をたたえる忠魂碑が建立されました。この忠魂碑は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊しましたが、1928年(昭和3年)に陸軍大将・一戸兵衛の筆による忠魂碑が再建されました。
その後、忠魂碑は宅地開発などにより移転し、現在は第二次世界大戦までの戦没者も合祀して、船越神社境内に移築されています。
駒寄の庚申堂
船越公園には、江戸時代に建立されて、船越の道端に置かれていた庚申堂もありました。
この庚申塔は、昭和初期まで現在の県道24号横須賀逗子線沿いにありましたが、道路工事のため、何度か移転をして、一度は船越公園内に安置されることで落ち着きました。
戦後は、船越小学校東側の字駒寄で祀られるようになったため「駒寄の庚申堂」と呼ばれるようになりました。
道端に置かれることが多かった庚申塔の宿命として、まちの発展とともに移転を余儀なくされるものですが、他の庚申塔でも神社や寺院の境内に安住の地を得られることがたびたび見られるように、「駒寄の庚申堂」も現在は船越神社の境内に安置されています。