逸見浄水場は、旧日本海軍が横須賀軍港で使用する水道水のために引いた横須賀軍港水道・半原系統の、横須賀側の水道施設です。
逸見浄水場の特筆すべき点は、セセッションと呼ばれる様式を基調としたモダニズム建築前夜あるいは最初期の建造物が建ち並ぶ、唯一無二の景観を持った水道施設であるということです。(「セセッション」とは「分離」という意味で、1900年前後に、主にドイツやオーストリアで起こった、歴史主義的な様式からの分離をめざしたムーブメントです。ドイツ語読みでは「ゼツェシオン」)
横須賀軍港水道・半原系統というと、神奈川県西部の半原水源地から東部の逸見浄水場までの約53㎞という長距離を、海軍が自然流下で導水したという土木技術の面が注目されがちです。また、目にとまりやすいまちなかの住居やオフィスなどと異なり、逸見浄水場は一般公開されていない、インフラ施設です。浄水場としての機能は2015年に廃止されたため、現役の施設でもありません。
このようなことから、認知度も注目度も決して高いとは言えませんが、横須賀を代表する貴重な近代化遺産の一つです。
現在、通水開始当初からの遺構としては、いずれも1919年(大正8年)に竣工(完成)した、緩速ろ過池とその調整室、配水池入口、ベンチュリーメーター室などが残っています。
これらの建造物のうち7棟は、2005年に国の登録有形文化財として登録されています。
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INDEX
逸見浄水場の浄水や配水の仕組み

逸見浄水場の大まかな仕組みは次のとおりです。
はるばる半原水源地より送水管を通り送られてきた水は、逸見浄水場の敷地に入ると、着水井で受けた後、緩速ろ過池へ送られます。緩速ろ過池は、その名前のとおり、内部の砂・砂利・レンガのろ過層を通り、緩やかに水を清浄させる施設です。緩速ろ過池できれいになった水は半地下構造の浄水池に送られ、一旦蓄えられた後、各地へと配水されていきます。
この他に、水の流量を計測するためのベンチュリーメーター室(量水室)が設置されています。
これらのうち、緩速ろ過池に設置された調整室(緩速ろ過池調整室)4棟、浄水池の入口(配水池入口)の2棟、ベンチュリーメーター室1棟の計7棟が、国の登録有形文化財として登録されています。
※当初「浄水池」と呼ばれていた施設は後に「配水池」と呼ばれるようになり、国の登録有形文化財への登録でも「配水池」と表現されています。そのため、この記事でもこれ以降は「配水池」に統一して記載します。
唯一無二の光景をつくりだす7棟の登録有形文化財
配水池入口

逸見浄水場のランドマーク的な建築と言えるのが、配水池の東西に配された、白亜の塔です。一見すると中層の建築にも見えますが、天井が高い鉄筋コンクリート造平屋建ての建築です。配水池中央を横切る観測路の両側に、その入口として2棟建てられています。
配水池は半地下構造のため、この配水池入口も下部は地下に埋まっています。塔状の建物にしたのは、開口部を大きく取ることで自然光を多く取り入れる、採光に配慮したつくりにするためと考えられます。室内に背丈の高いものが置かれているわけではなく、上部の空間は空洞です。
レンガ造の建築では強度の問題から開口部を大きく取ることが難しく、このようなプランを可能にしたのは、鉄筋コンクリート造の建築ならではと言えます。
配水池入口の外観は、当時、ヨーロッパを中心に流行していたセセッション(ゼツェシオン)を基調としたデザインになっています。遠めからは分かりにくいですが、近づいて見ると、入口や屋根のまわりを中心に、丸や四角形、直線などの、幾何学的な模様が散りばめられているのが分かります。
鉄骨造や鉄筋コンクリート造の普及により、建築はそれまでのレンガ造などがもっていた制約から解放され、高層建築であったり、大きな開口部や長いスパンを持つ間取りの建築が可能になりました。
1910年ごろより流行したモダニズム建築は、それらの特徴を積極的にいかし、機能美を求め無駄な装飾を廃し、直線的でシンプルなデザインを持つのが特徴です。
これに対して、1900年前後より見られるようになったセセッション様式の建築は、鉄やコンクリートといった新素材をいかした直線的なデザインというモダニズム建築との共通性はみられるものの、幾何学模様の装飾を多用するという特徴を持っています。装飾による表現を重視するという意味では前時代的な歴史主義建築に通じる面もあります。そのため、セセッション建築の建築史における後年の評価としては、モダニズム建築へと向かう過渡期の様式、あるいは、モダニズム建築最初期の様式とみなされています。
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緩速ろ過池調整室

逸見浄水場の核となる施設と言えるのが、半原水源地より送られてきた水を浄水する、緩速ろ過池です。緩速ろ過池は4池からなり、そのそれぞれに、ろ過速度を調整するための調整井があります。調整井の上部には、鉄筋コンクリート造平屋建ての緩速ろ過池調整室が設置されています。
緩速ろ過池調整室は4棟とも共通のデザインで、配水池入口と同様、セセッションを基調とした外観です。室内は切妻屋根のシンプルな見た目ですが、外観は四方の柱を強調したようなデザインに見せています。
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ベンチュリーメーター室(量水室)
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ベンチュリーメーター室(量水室)は、水の流量を計測するための機器であるベンチュリーメーター(流量計)が設置されている建物です。鉄筋コンクリート造平屋建てで、水道管は地下を通っているため、地下室が設けられています。
このベンチュリーメーター室の外観は、配水池入口や緩速ろ過池調整室と異なり、レンガのタイル貼りです。後の時代に改修されたようですので、竣工当時の姿はこちらもセセッション基調だったのかもしれません。
室内には、竣工から廃止となるまで使われていたというイギリス製のベンチュリーメーターなどが保存されています。建物同様、こちらも歴史的に価値があるものです。



逸見浄水場の設計者とその系譜
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逸見浄水場と同じ横須賀海軍経理部建築科が設計を手がけたセセッションを基調とした建築としては、1913年(大正2年)竣工の横須賀海軍工廠造兵部庁舎製図工場(後の東芝ライテック横須賀工場100号建物)が知られています。横須賀海軍工廠造兵部庁舎製図工場は鉄筋コンクリート造2階建てで、設計は白岩正雄技師とされています。
逸見浄水場の一連のセセッション建築は、横須賀海軍工廠造兵部庁舎製図工場と類似したデザインであることから、白岩技師の関与が推測されています。
海軍の技師となる以前の白岩正雄技師は、文部省建築課で技手を務めていました。このときの建築課長・久留正道技師は旧東京音楽学校奏楽堂や旧帝国図書館(現在の国際子ども図書館)のほか、数多くの学校建築を手がけた、この時代を代表する建築家の一人です。
後年、白岩技師も、海軍を退官した後、1925年(大正14年)竣工の鎌倉女学院・旧校舎を設計しています。
比較的早い時期から鉄筋コンクリート造や中層建築の設計に携わり、学校や庁舎建築を得意としていたことがうかがい知れます。
逸見浄水場全体の設計としては、横須賀海軍経理部建築科の科長・石黑弘毅技師と吉田直技師によるものと記録されています。両者は、建築技術者というよりは土木技術者のため、逸見浄水場の一連のセセッション建築の実質的な設計者とは考えにくいです。
1929年(昭和4年)に日本工学会が発行した「明治工業史」によれば、横須賀軍港水道・半原系統計画は石黑弘毅技師を主任として1908年(明治41年)より測量設計に著手し、1912年(明治45年)その用地買收及び鉄管購入等をはじめたとあります。
石黑弘毅技師は、日本初の上水道専用ダムである長崎市の本河内高部貯水池建設をはじめ、大阪市、広島市など11都市で水道を完成させた明治時代を代表する土木技術者・吉村長策技師のもとで、長く実務を担う技手として従事してきた経歴の持ち主です。吉村技師が海軍所属の技師として佐世保鎮守府経理部建築科に移った際には、石黒技師も同建築科へ海軍技師として移っていることから、石黒技師は吉村技師の右腕のような存在だったとみられます。
また、石黒技師は佐世保で、柔構造理論(建物を柔軟な構造として地震による破壊を防ぐという考え方)を用いた鉄筋コンクリート造の先駆者である真島健三郎技師と同僚でした。真島技師は、日本初の本格的な鉄筋コンクリート造の建造物とされる(諸説あり)、1905年(明治38年)竣工の佐世保港内第一烹炊場・潜水器具庫の設計者です。両者の佐世保鎮守府所属時期より、これに石黒技師が関わっていた可能性も考えられます。
その後、石黒技師は、1908年(明治41年)に佐世保から横須賀へ異動していますが、それまでの吉村技師や真島技師らとの経験と実績を買われて、横須賀軍港水道・半原系統計画のために移ってきたものとも考えられます。その翌年の、横須賀軍港水道・半原系統が起工した1912年(明治45年)には、横須賀鎮守府司令長官官舎(田戸台分庁舎)などを設計した前任の桜井小太郎技師から建築科長の職を引き継いでいます。
吉田直技師は、東北帝国大学農科大学(元札幌農学校、後の北海道大学工学部の前身の一つ)を卒業後、海軍へ入り、横須賀鎮守府、佐世保鎮守府で技師を務めた後、再び横須賀へ戻り、1929年(昭和4年)に橫須賀海軍建築部長、1933年(昭和8年)には海軍省建築局長にまで昇進しています。
当時の海軍における建築部署の重要ポストが東京帝国大学工科大学(元工部大学校、後の東京大学工学部)卒業の技術者で占められるなか、吉田技師の経歴は異例の人事と言えます。それだけ突出した技術力や統率力を持ち合わせていたことがうかがい知れます。
以上のように、横須賀海軍経理部建築科にはさまざまなバックグラウンドを持つ優秀な技術者たちが集められ、それが、逸見浄水場というセセッション建築が建ち並ぶ独特な水道施設や、横須賀軍港水道・半原系統という一大プロジェクトの成功につながったと言えます。
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日本遺産「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財
旧横須賀軍港水道走水水源地煉瓦造貯水池/鉄筋コンクリート造浄水池は、日本遺産「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財になっています。
横須賀市にある、その他の構成文化財をいくつかご紹介します。












