走水低砲台は、明治時代に旧日本軍が建設した、東京湾を防衛するための砲台の一つです。猿島砲台や観音崎砲台群などとともに、東京湾要塞を構成する砲台の一つでした。
砲座跡、弾薬庫などのレンガ積み構造物の遺構は、東京湾要塞のなかでも保存状態が良い砲台の一つです。
走水低砲台跡は御所ヶ崎という岬にあり、砲台跡の背後(アクセス道路である国道16号から見た場合は砲台跡の手前側)は旗山崎公園として整備されています。
旗山崎公園や御所ヶ崎という名称は、古代、日本武尊が東征の際に岬の山に旗を立てて御所を構えたという伝説に由来しています。
走水低砲台跡は、長年、未公開でしたが、2016(平成28年)からガイド付きの見学ツアーが開始されました。2021年3月からは、土・日・祝日限定(12月29日から1月3日は除く)で一般公開が開始されて、ガイドなしで自由に見学することができるようになりました。
INDEX
東京湾防衛の重要拠点に築かれた 走水低砲台
走水低砲台は、1885年(明治18年)4月から建設に着手して、翌1886年(明治19年)4月に完成しました。猿島砲台や観音崎砲台群(の、初期に建設された砲台)よりは数年新しく、千代ヶ崎砲台よりは10年ほど古いことになります。
観音崎と房総半島の富津岬の間で東京湾がもっとも狭まるこのあたりは、江戸湾(東京湾)に外国船が現われるようになった幕末の1843年(天保14年)には旗山崎台場が築かれて、明治以降は、走水低砲台の他にも走水高砲台や花立台砲台が築かれるなど、東京湾防衛の重要な拠点でした。
砲座
走水低砲台は、27cm加農砲が4門、東京湾に向けて扇形に配置されていました。4座すべての砲座跡が、良好な状態で残されています。
弾薬庫
4つの砲座は、2座で1セットになっていて、地下にある2ヶ所の弾薬庫を2座ずつ共有していました。
弾薬庫の内部はレンガ造りになっていて、白く漆喰が塗られていたことが分かります。走水低砲台のレンガの積み方は、国内では明治初期の建造物に多い、フランス積みです。
揚弾井
地下の弾薬庫から地上の砲座へは、揚弾井と呼ばれる穴を使って、砲弾を供給していました。井戸で水をくみ上げるように、滑車で吊り上げていましたが、滑車部分は残っておらず、その留め具と思われる金属がわずかに残っているだけです。(上の写真は、揚弾井を地下から見上げたものです)
東京湾を一望できる広場
他の砲台跡もそうであるように、走水低砲台の地上部分も、海への眺望が素晴らしい場所にあります。ベンチも備え付けられていて、戦争遺跡としてではなく、東京湾を望む景色の良い公園としてだけでも、訪れる価値はあると思います。
兵舎
2つの弾薬庫の間には兵舎があります。弾薬庫と同じように地下構造になっています。こちらも内部はレンガ造りです。弾薬庫より広い空間があり、大きなアーチ状の天井までレンガがキレイに残っています。
日本武尊の東征の伝説が残る 御所ヶ崎・旗山崎公園
走水は日本武尊の東征の伝説が多く残る場所で、走水低砲台がある御所ヶ崎やその背後の旗山崎公園もその一つです。
「古事記」や「日本書紀」によると、日本武尊は東征の途中、相模国(三浦半島を含む、現在の神奈川県の一部)から上総国(房総半島中部から南部の、現在の千葉県の一部)へ船で渡る準備のために、このあたりに御所を建てました。いざ海を渡る際、暴風に遭い、日本武尊の妻である弟橘媛命が入水したところ海は静まり、日本武尊一行は無事に上総国に渡ることができたと言われています。
弟橘媛命が入水した数日後、弟橘媛命の櫛が海岸に流れ着き、それを納めた社を御所ヶ崎に建てて橘神社として祀りました。
しかし、明治時代になって御所ヶ崎に走水低砲台が建設されることになると、橘神社は近くの走水神社に移されました。その後、1909年(明治42年)には、橘神社は走水神社に合祀されています。
古代日本の神話にも登場し、幕末、明治から昭和初期にかけては国を守るための重要拠点だった御所ヶ崎、現在の旗山崎公園は、そんなことをまったく感じさせないほど、とくに平日は、いたってのどかな普通の公園です。
なお、旗山崎公園や走水低砲台には駐車場がありません。一般利用ができる最寄りの比較的大きな駐車場は、馬堀海岸方面の走水水源地駐車場か観音崎方面の横須賀美術館の駐車場になります。
いずれも、徒歩で15分ほどの場所にあります。走水水源地駐車場のほうが若干近いですが、頂上に破崎緑地(展望デッキ)がある小さな峠越えをともないます。