法勝寺は逗子・沼間にある日蓮宗の寺院です。
鎌倉時代の1295年(永仁3年)ごろ、日蓮聖人の門弟九老僧の一人・日範上人が三浦半島で布教していた際、この地にも立ち寄り、当時、天台宗だった寺の僧侶と法論(仏教の異なる宗派間で行われる論争)をくり広げたと言います。この法論に日範が勝ったことにより、日蓮宗に改宗し、寺号も正覚寺から法勝寺に改められました。
法勝寺には、奈良時代の724年(養老8年/神亀元年)、行基作と伝わる十一面観世音菩薩像を安置しています。この十一面観音の背後には、今も沼間で語り継がれている七つ頭の大蛇と七諏訪の伝説や美肌観音の伝説と言った、さまざまなストーリーがあります。
山号 | 沼間山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 日蓮上人立像 |
創建 | 天平年間(730年ごろ) ※前身の善応寺 |
開山 | 中興開山:日秀 |
開基 | 不詳 |
現在の法勝寺は、長尾山善応寺を起源に、天台宗の子生山感応寺、天童山正覚寺、そして、日蓮宗の沼間山法勝寺と、宗派も寺号も変えながら、荒廃と再興をくり返してきました。完全に途絶えてしまうことがなかったのは、それだけ、地域の人たちに必要とされてきたからなのでしょう。
その歴史に一体感をもたらしているのが、行基作と伝えられている十一面観世音菩薩像です。
INDEX
沼間に残る 七つ頭の大蛇と七諏訪の伝説
かつての逗子湾は、田越川流域の内陸の奥深くまで入り込んでいて、現在の沼間も「沼浜(ぬまま/ぬまはま)」と呼ばれる、内海に面した沼地でした。
奈良時代、この地を治めていた長尾左京大夫善応は、この海に現われる七つの頭を持った大蛇が人々を苦しめていることに頭を悩ませていました。そこで、長尾善応は、この地を訪れていた高僧・行基に大蛇退治を懇願します。今も法勝寺に安置されている十一面観世音菩薩像は、行基が祈祷して大蛇を退治したときに彫ったものだと伝えられています。
このとき、長尾善応らは、七つの諏訪神社を建てて、大蛇の頭を一頭ずつ別々の社に祀りました。これが、今も沼間に残る、七つ頭の大蛇と七諏訪の伝説の由縁です。
これは、室町時代に記されたという「法勝寺古縁起」によるものですが、ほぼ同様の伝説は法勝寺の裏山にあたる場所に建つ神武寺にも伝わっています。
かつての田越川流域が、いかに暴れ川に悩まされていたかということを物語るようなエピソードです。
おできから人々を救ってきた 逗子の美肌十一面観音
その後、行基作の十一面観世音菩薩像は、沼間のもっとも川上に建立された長尾山善応寺に祀られました。これが法勝寺のはじまりとされています。「長尾山善応寺」という名前は、長尾善応に由来します。
しかし、やがて、善応寺は衰退し、十一面観世音菩薩像も行方不明になってしまいます。
平安時代の寛仁年間、この地の領主の美しい娘の顔におでき(悪瘡)ができて、命も危うい状態になりました。諏訪神社にお参りした娘の一族は、諏訪大明神の導きにしたがい向かった蓮沼で、十一面観世音菩薩像を発見しました。十一面観世音菩薩像を手厚く祀り毎日お参りすると、娘のおできは消えて、もとの美しい顔に戻ったと言います。
人々はこれに感謝し、子生山感応寺を建立し、十一面観世音菩薩像が祀られました。
なお、「蓮沼」というのは、法勝寺からもほど近い桜山の観蔵院近くの古い地名(小名、小字)であり観蔵院の山号で、観蔵院にも行基作と伝わる十一面観世音菩薩像が安置されています。
時は流れて、ちょうど、このエピソードと同じような出来事が、江戸時代前期の寛文年間にも起こりました。今度は檀家だった葉山某氏がおできに悩まされましたが、またも、十一面観世音菩薩像が現われて、おできも癒えたと言います。
このときはすでに法勝寺となっていましたが、十一面観世音菩薩像は行方不明になってしまっていました。
このように、おできから人々を救ってきた法勝寺の十一面観世音菩薩像は、「美肌観音」「美肌十一面観音」として信仰を集めています。
法勝寺の十一面観世音菩薩像の御開帳は、毎年4月11日の「観世音菩薩大祭」の他、春と秋のお彼岸の時期に行われます。
法勝寺境内の見どころ
妙法三社稲荷
翁・鳥丸・桂馬の三社を合祀したお稲荷さんで、毎年5月には、商売繁盛を願う「妙法三社稲荷大祭」が執り行われてきました。
松竹庵梅月辞世の句碑
横須賀・船越町に住んだ俳人・松竹庵梅月の辞世の句碑で、高弟の松竹庵酔月の筆によります。
擂(すり)鉢に 舐(な)め尽くされし 蕗(ふき)の苔
松竹庵梅月は明治から昭和にかけて活躍した、松尾芭蕉の俳風「蕉風」を受け継ぐ俳人で、門弟は全国に数千人にも及んだと言います。峠を挟んで船越町と隣り合わせの沼間の人たちにも、松竹庵梅月の門人がいたことでしょう。
北村西望作「喜ぶ少女」像
北村西望は昭和を代表する彫刻家で、代表作に「長崎平和祈念像」があります。
本堂前のしだれ桜
今は園児が元気に駆けまわる 武道屋敷
幼稚園が併設されている寺院というのはめずらしいことではありませんが、法勝寺と併設のかぐのみ幼稚園はその境界線もあいまいで、本堂の真正面に遊具が置かれたりしていて、境内の中央まで園庭の一部として使われています。
そのさらに前方の、法勝寺の境内前一帯には「武道屋敷」という漢字を連想させる「ぶどうやしき」という地名が残っています。
この辺りには、平安時代に活躍した武将で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の父・源義朝の館・沼浜城跡(沼浜亭跡)があったとされています。館自体は法勝寺の西隣りにあたる、田越川(矢の根川)とその支流に囲まれた旧家・桐ヶ谷家(桐ヶ谷歴史庭園)の建つ「堀の内」にあったとする説が有力です。
法勝寺背後の山にもひな壇状に築かれた平場(現在の墓地)があって、ここに武家の館の付属施設があった可能性も考えられます。