桐ヶ谷歴史庭園は、平安時代に活躍した武将で、河内源氏第6代棟梁の源義朝の館・沼浜城跡(沼浜亭跡)と推定される場所にある桐ヶ谷氏私設の庭園です。2022年5月にオープンしました。
桐ヶ谷家の先代当主の名前が冠されたローズガーデン「明弘の庭」と、桐ヶ谷家やこの土地の歴史にまつわる資料が展示されている資料館「かわせみの家」などからなります。
また、桐ヶ谷歴史庭園の裏山には、桐ヶ谷家の先祖の墓と伝わる逗子市指定文化財「先祖やぐら横穴」があります。
桐ヶ谷歴史庭園は、火・水・木・金曜日の午後のみ開園しています。
金・土・日曜日は、有料の貸しホールとして利用可能です。その他、メンテナンス等でお休みとなる場合もありますので、最新の情報は公式サイトをお確かめください。
「かわせみの家」に常設のグランドピアノ「スタインウェイ155」は、小型ながらとても豊かな音を奏でます。
桐ヶ谷歴史庭園は、美しい山並みと調和した庭園が、歴史資料館とともに、地域に開かれた魅力的な憩いの場となっているため、2023年2月に、逗子市の「まちなみデザイン逗子」に認定されました。
桐ヶ谷家の代々の当主は、江戸時代は組頭や年寄をつとめ、明治時代には旧田越村(逗子町、逗子市の前身)の村長をつとめた、地域の名家です。
このような歴史ある個人宅が、源義朝の館・沼浜城跡という旧跡を今に伝えるとともに、家宝とも言える貴重な品々を常時公開(定休日や不定休あり)しているという例は、少なくとも三浦半島ではとてもめずらしいです。
自治体が運営する博物館や史料館などと比べて規模は大きくありませんが、それらにはない旧家の生きた歴史を見聞きできる魅力が、桐ヶ谷歴史庭園にはあります。
INDEX
ローズガーデン「明弘の庭」
丁寧にお手入れされた桐ヶ谷歴史庭園のお庭は、初夏と秋に咲く約100本のバラの他、春には桜が咲きほこります。緑豊かな自然に囲まれた庭園には、カワセミなどの野鳥も多く訪れます。
この庭園には、かつて、樹齢数百年というケヤキの大木もあったとのことです。「かわせみの家」では、そのケヤキの切り株を利用した座卓を見ることができます。
緻密にデザインされた庭園では、驚くほどたくさんの種類の植物が育てられています。まだ整備されだしてから年月が経っていませんので、まだまだこれから成長していき、この場所に新たな歴史をつくっていくことでしょう。
春に桐ヶ谷歴史庭園で見られる花々
春の桐ヶ谷歴史庭園では、「かわせみの家」の前でミモザ、園路沿いで水仙、山すそで桜などを見られます。
初夏に桐ヶ谷歴史庭園で見られる花々
初夏の桐ヶ谷歴史庭園では、バラをはじめ、あじさいやハーブなど、さまざまな種類の花を見られます。(写真はほんの一部です)
秋に桐ヶ谷歴史庭園で見られる花々
秋の桐ヶ谷歴史庭園では、秋バラを中心に、コスモスなどの花々が見られます。また、「かわせみの家」の前では、晩秋に大きなモミジの木が色づきます。
資料館「かわせみの家」
私設資料館「かわせみの家」では、桐ヶ谷家に伝わるさまざまな品が展示されています。
菊の御紋の入った漆器やコピーではない日蓮曼荼羅などの貴重な品々から、カラーで刷られた江戸時代の日本全国の旅行用地図(天保14年の「大増補 道中独案内図」)、明治時代の卒業証書や小泉元総理の祖父にあたる小泉又次郎氏からの年賀状といったごく個人的な物まで、バラエティに富んでいます。
「かわせみの家」は、最大50人程度を収容可能な有料の貸しホールとしても利用でき、音響もとても素晴らしい空間になっています。
源義朝の館・沼浜城跡
桐ヶ谷家の家号「堀の内」が示す武家の館跡
桐ヶ谷歴史庭園は、矢の根川(逗子海岸で相模湾にそそぐ、田越川の上流部の別称)と、「げないぼう」と呼ばれる谷戸から流れ出る矢の根川の支流が合流する場所に位置しています。前面にあたる南側をこれらの川によって囲まれ、背後の北側は山上に神武寺のある丘陵がそびえる、天然の要害の地にあります。
桐ヶ谷家の家号(屋号)は「堀の内」と言いますが、これは中世の館跡に多く見られる地名であり、天然の堀に囲まれたこの場所の地理的特徴とも合致しています。土塁とみられる遺構も確認できたと言います。
「堀の内」の東側には「武道屋敷」という漢字を連想させる「ぶどうやしき」という地名も伝承されています。「堀の内」のすぐ南側で矢の根川に架かる橋は「馬場橋」と言い、「矢の根川」もまた武具を連想させる名前であり、地名も、このあたりに武家の館があったことを今に伝えています。
矢の根川を挟んで桐ヶ谷歴史庭園の反対側に建つ五霊神社は、源義朝の館の鎮守として創建されたと伝わる古社です。
また、昭和初期に編さんされた「逗子町誌」によると、源義朝の館の裏鬼門にあたる台山に稲荷社を勧請されたことが書かれていて、桐ヶ谷歴史庭園の南西の方角にある台山緑地には、今も稲荷社の小さな祠が鎮座しています。なお、台山は「殿藪」とも呼ばれていたそうです。
交通の要衝だった田越川流域の沼間
桐ヶ谷歴史庭園のある沼間をもう少し俯瞰して見ますと、三浦半島の付け根の、相模湾と東京湾のちょうど中間に位置しています。田越川沿いには、古東海道(律令時代の畿内から常陸国に至る官道で、相模国と上総国の間は、鎌倉、逗子、葉山から三浦半島を東西に横断して、走水付近より海路で房総半島に渡るというルートだったと考えられています)のルートの一つが走っていたと考えられています。田越川流域では、長柄桜山古墳群や池子遺跡など、古代から人が生活していた痕跡を示す遺跡も多く見つかっていて、ここに幹線が走っていたことを物語っています。
相模湾から田越川を使った海運が発達していたことも考えられます。田越川の上流から山を越えた東京湾側には、船越(横須賀市船越町)という地名が残っていて、舟を担いで山を越え、相模湾側と東京湾側を行き来していたことも想像できます。
かつての田越川は、今よりも内陸に大きく入り江が入り込んでいて、沼間のあたりは湿地帯が広がり、海岸線も近かったようです。現在の「沼間(ぬまま)」という地名も、沼浜城という名前に見られる「沼浜(ぬはま/ぬまはま)」という地名がなまったものとみられていますが、まさに、この辺りまで入り江だったことを裏付けるような地名です。
三浦一族らが支えた義朝・頼朝父子それぞれの鎌倉入り
源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由の一つが、河内源氏第2代棟梁の源頼義以来、先祖代々が鎌倉に拠点を置いていたことにあるとされています。頼朝の父・義朝もまた、同じように、鎌倉に拠点を置きました。
しかし、源頼朝も義朝も、簡単に鎌倉を本拠地にできたわけではありません。その背後にいた、坂東武者の活躍なくして成し遂げられるものではありませんでした。
源頼朝の鎌倉入りは、序盤の石橋山の戦いで敗れるものの、行動をともにした北条時政・義時らとともに、房総半島で三浦一族と合流し、上総広常ら坂東武者が頼朝のもとに集結していったというストーリーがよく知られています。
あまり大きく語られることはありませんが、この源頼朝のサクセス・ストーリーは、父・義朝の実績があったからこそ実現したと言えます。
源義朝は少年期を房総半島の上総国で育ったとされていて、「上総御曹司」という呼び名もあったようです。義朝もまた、関東で勢力を拡大するにあたって、先祖代々ゆかりの地である鎌倉を目指すことになります。その足がかりとして、当時、三浦半島を治めていた三浦一族の当主・三浦義明の娘を側室に迎えるなど、三浦一族との関係を強めていきます。三浦半島は、房総半島と鎌倉の間にあり、鎌倉やその先の南関東を手中に収めるためには重要な場所でした。
東京湾を挟んで、自らの勢力基盤であった上総国を背後に持ち、鎌倉に近く、新たに婚姻関係を結んだ三浦一族の勢力圏内である沼間(沼浜)は、鎌倉入りのために源義朝が館を構える土地として、これ以上ない立地でした。
後に、源頼朝の平家討伐の挙兵に三浦一族が全面的に協力したのには、頼朝の父の代にこのような背景があったからです。このとき、義朝に娘を嫁がせた三浦義明は、衣笠城合戦で自らの命を犠牲にして、三浦一族を頼朝の元に向かわせています。
関東の西の端である房総半島から徐々に東へ勢力を拡大していった源義朝は、他の南関東の有力な在地豪族も従えるようになると、ついに、鎌倉入りを果たします。
なお、当時は沼浜(沼間)も「鎌倉郡」の一部でしたので、広い意味では、沼浜に館を構えた時点で「鎌倉入り」を果たしていたとも言えます。
鎌倉幕府創設の陰に源義朝の沼浜城あり
こうして、源義朝の本拠地としての沼浜城の役割は終わりました。
源氏ゆかりの地としてクローズアップされることはほとんどない逗子・沼間ですが、鎌倉幕府創設の陰には、沼浜城の存在や源義朝の躍進は欠かせないものでした。
源義朝が鎌倉で館を構えた亀ヶ谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)は、鎌倉時代に入り、北条政子が頼朝の菩提を弔うために寿福寺を建立するなど、鎌倉の中でもとくに源氏との結びつきが強い土地であったことが知られています。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、沼浜城も頼朝の時代までは残っていたようですが、頼朝の死後に解体されて、寿福寺に寄付されたようです。
源頼朝が鎌倉幕府を開いてからは、相模湾と東京湾の往来も、より鎌倉に近い朝夷奈切通が整備されるなど、田越川流域の交通量も相対的に減少していったと考えられます。
源氏ゆかりの地を受け継ぐ桐ヶ谷家
桐ヶ谷家の先祖も、こうした時代に沼間の地に移り住んできたと考えることもできます。
桐ヶ谷歴史庭園の裏山に残る、桐ヶ谷家の先祖の墓と伝わる「先祖やぐら横穴」は、中世以前に多く作られた須恵器や土師器類、主に鎌倉時代以降に供養の際に利用された「かわらけ」といった、時代の異なる出土品などから、奈良時代に当地の有力者の墳墓として造られた横穴を、鎌倉時代に再利用されたものと考えられています。やぐら奥の棺室には、五輪塔が安置されています。