正覚寺は、光明寺開山で浄土宗三祖の然阿良忠(記主禅師)が開いた良忠院悟真寺を前身に持つ、逗子・小坪の字飯島にある寺院です。光明寺のある材木座とは飯島岬(飯島崎)を挟んで隣接しています。
正覚寺の裏山は、戦国時代の武将・三浦道寸(義同)ら相模三浦一族の住吉城跡とされていて、1512年(永正9年)、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏に攻められて落城した際に、前身の悟真寺も兵火で焼失したと言います。
その後、光明寺十八世・眞蓮社快譽上人が悟真寺を再興し、このときに寺名も正覚寺に改められました。
山号 | 住吉山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1541年(天文10年) |
開山 | 然阿良忠 ※前身の悟真寺の開山 |
開基 | 眞蓮社快譽 |
正覚寺は、良忠上人が荼毘に付された場所とも伝えられていて、良忠や光明寺とは非常にゆかりの深い寺院です。境内の奥には、良忠が念仏を唱えていた場所と伝わる岩窟(やぐら)も見られます。
良忠上人が鎌倉で最初に拠点とした悟真寺
江戸時代後期に成立した地誌「新編相模国風土記稿」によると、1240年(仁治元年)、布教のため鎌倉に入った浄土宗三祖・良忠上人は、住吉谷の悟真寺に住み、教えを説いたと言います。中世の小坪は、鎌倉の南の境とみなされている場所でした。
その後、良忠は、鎌倉幕府第4代執権・北条経時に招かれて佐助ヶ谷に蓮華寺を開きます。1246年(寛元4年)閏4月に北条経時が死没すると、それ以降に、蓮華寺は住吉谷のすぐ隣りの材木座に移ってきて、寺名も光明寺に改められました。
この間、良忠が最初に住んだ住吉谷の悟真寺が存続していたのか定かではありませんが、戦国時代に三浦道寸と北条早雲がこの地で争った際には、悟真寺としてこの地にあったようです。
現在、良忠上人の墓は、北条経時や光明寺歴代住職の墓とともに、光明寺裏山の天照山の中腹にあります。
良忠がこの地で荼毘に付されたというのは、悟真寺(現在の正覚寺)こそ、良忠にとって鎌倉での原点と言えるような場所だったからなのでしょう。
かつて鎌倉と逗子を結ぶメインルートが走っていた正覚寺門前
今でこそ鎌倉と逗子を結ぶメインルートは何本も掘られたトンネル経由に変わりましたが、近世までは正覚寺の門前に鎌倉と逗子を結ぶ主要道が走っていたとみられています。
平安時代末期、源氏方の三浦義澄ら三浦一族と、平家方の畠山重忠らが戦った小坪合戦で名前の出てくる中世の小坪坂は、このあたりにあったと考えられます。現在は山間部で宅地化などの開発が進み、往時の道をたどることはできません。
江戸時代に鎌倉道(あるいは、小坪切道や飯島切道)と呼ばれ主要道になったのは、正覚寺の前を通り、海に面した崖の中腹に設けられた切道を通り、海前寺や小坪寺の前に抜けるルートだとみられます。この切道も断崖絶壁を通り危険なため、一部を除いて現在は廃道となっています。
現在では鎌倉と逗子を結ぶメインルートからは少し外れた正覚寺ですが、門前に所狭しと集められた石仏が、往時の賑わいを物語っているようです。