釜利谷やぐら遺跡は、関東学院大学 横浜・金沢文庫キャンパス東側の丘陵地に位置する、中世の遺跡です。この辺りには、「白山道(しらやまみち/しらやまどう)」と呼ばれる、鎌倉から釜利谷を通り金沢方面に至る古道が通っていたと見られていて、釜利谷やぐら遺跡内の尾根道がその一部だったと考えられています。
遺跡名に付けられた「やぐら」とは、主に中世に造営された横穴式の墳墓または供養の場のことで、1986年(昭和61年)からその翌年にかけて行われた釜利谷やぐら遺跡の発掘調査では、9基のやぐらが確認されています。これらの他にも白山道周辺の山すそでは、現在もいくつかのやぐらが口を開けているのを確認できます。
やぐらは、鎌倉周辺や中世の鎌倉の文化を強く受けた場所に多く分布しているのが特徴で、白山道を通して鎌倉とは隣り合わせの場所にあった釜利谷も、鎌倉の文化圏にあったことをよく表わしている遺跡と言えます。
INDEX
不動明王が祀られている「11号やぐら」
釜利谷やぐら遺跡のやぐらの多くは宅地開発などで姿を消してしまいましたが、その一つである「11号やぐら」が白山道奥公園の片隅で保全されています。
「11号やぐら」は他の周辺のやぐらに比べて山すその高い位置にあることが特徴です。現在、やぐらの奥には不動明王が安置されています。
東光寺あるいは白山堂と関係が深い釜利谷やぐら遺跡
かつて、釜利谷やぐら遺跡のすぐ側には、鎌倉時代初期に活躍した武将・畠山重忠が鎌倉・薬師ヶ谷(現在の鎌倉宮のあたり)で創建して室町時代中期の応仁年間(1467~69年)に釜利谷へ移転してきたと伝わる東光寺があったと見られています。
釜利谷やぐら遺跡の発掘調査では、山の中腹から、東光寺の歴代住職の墓9基と畠山重忠の墓と伝わる供養塚が確認されています。(東光寺は現在も、東寄りの場所に移転して、「東光禅寺」として現存しています)
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編武蔵風土記稿」などによると、東光寺は「白山堂」とも呼ばれていたようで(あるいは、以前からこの地にあった白山堂に東光寺が統合したか)、このあたりの中心的な寺院でした。
このように、釜利谷やぐら遺跡は、東光寺あるいは白山堂と関係が深いものだった可能性が高いと考えられます。