諏訪公園は、1912年(明治45年)5月1日、横須賀軍港近くの八幡山に、当時、皇太子だった大正天皇のご成婚を祝って開園した公園です。愛宕山公園(明治26年開園。当時は浦賀町)、衣笠山公園(明治40年開園。当時は衣笠村)に次いで、横須賀市内で3番目に古い公園です。
「諏訪公園」という名前の由来は、当時のこの場所の地名「諏訪町」(現在の横須賀市緑が丘周辺)から付けられたもので、その「諏訪町」は現在も公園入口に鎮座している諏訪大神社に由来します。
開園当時の諏訪公園は、横須賀軍港の他、市役所や小学校が隣接する、まさに横須賀市の中心に位置していました。まだ「公園」がめずらしかった時代、園内には小動物園まであり、市民の憩いの場として賑わっていたことが想像できます。
しかし、市役所は1923年(大正12年)に発生した関東大震災後で倒壊したため大滝町の埋立地(現在の住所は横須賀市小川町)に移転し、震災の復興事業や1930年(昭和5年)に開通した京急線の影響などで市街地の重心も横須賀中央駅方面に移っていくなどしたため、徐々にまち外れの公園といったロケーションに変わっていくことになりました。また、その場所柄も手伝い、戦争に翻弄された公園でもあります。
現在は訪れる人も少なく、「公園」というよりは、諏訪大神社の社叢林のようです。
ただ、園内の桜がひっそりと咲きほこる季節だけは、往時の賑わいをしのばせてくれます。
横須賀が軍港都市となり、発展するきっかけとなったのは、幕末に建設がはじまった横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)です。そこからほど近い場所にあった諏訪公園には、かつて、この建設に尽力した小栗忠順(小栗上野介)とレオンス・ヴェルニーの胸像が建っていました。
しかし、これらの胸像は、第二次世界大戦中の金属供出により現存していません。その後、二人の胸像はヴェルニー公園(当時の臨海公園)に再建されることになりますが、台座だけは諏訪公園に設置されていた当時のものが受け継がれています。
INDEX
諏訪公園は旧横須賀市内最古の公園

諏訪公園が開園した1912年(明治45年)は、幕末の横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)建設からはじまった横須賀の軍港化から、50年近くの年月が経過したころでした。
この50年で、江戸時代まで半農半漁の寒村に過ぎなかった横須賀は、急速に発展することになりました。旧日本海軍の横須賀鎮守府にも近かったこのあたりには、横須賀市役所の庁舎(現在の聖ヨゼフ病院の場所)が建設され、市役所の隣りに諏訪小学校(諏訪尋常小学校)と、諏訪大神社の裏山に八幡山小学校(八幡山高等小学校。現在の緑ヶ丘学院の場所)と言う、公園隣接地には2つの学校(両校は大正時代に合併し、昭和前期に横須賀市小川町に移転)もありました。
諏訪公園は、このような市の中心部と言えるエリアに、現存する公園としては当時の横須賀市最初の公園として誕生しました。この当時、愛宕山公園がある浦賀や衣笠山公園がある衣笠は、まだ横須賀市に編入される前でしたので、諏訪公園は横須賀最古の公園と言えます。

日本の軍国化とともに歩んだ諏訪公園の歴史

当時の時代背景やその場所柄、諏訪公園は日本の軍国化とその解体の縮図とも言えるような場所です。
諏訪大神社の裏山にあたる諏訪公園一帯は、古谷山、または別名・八幡山と言います。
「八幡山」という名前は、1866年(慶応2年)に、細川藩の大津陣屋(現在の大津中学校や県立横須賀大津高校付近にあった、幕末に江戸内海(江戸湾、現在の東京湾)を警備するために置かれた陣屋)にあった八幡社(現存せず)を遷座し、横須賀製鉄所の守護神としてこの山に祀ったことに由来します。
1912年(明治45年)の諏訪公園開園直後には、横須賀海軍工廠の工友会(横廠工友会)によって殉職職工の招魂塔が建立され、毎年、海軍記念日(日本海海戦記念日)の5月27日には、祭典が開催されていたと言います。
横須賀製鉄所の建設に尽力した人物として、江戸時代末期の幕臣である小栗忠順(小栗上野介)とフランス人技師のレオンス・ヴェルニーが知られています。1922年(大正11年)には、諏訪公園にこの二人の胸像が設置されました。
八幡山の山上に造られた諏訪公園は、偉人の功績を称えたり、故人を鎮魂する場所としてふさわしい、横須賀の町なみを一望できる、眺望の良い公園でした。それは、古い横須賀の写真に、諏訪公園から写したとされるものが多く残っていることからも分かります。しかし、軍港都市であった横須賀では写真を自由に撮れたわけではなく、許可を得て撮られたそれらの写真の多くには検閲による加工の跡が見られます。
戦前の横須賀の観光ガイド本には、諏訪公園は眺望の良い公園であると紹介されていましたが、実際は、憲兵による厳しい監視の目があったものと考えられます。
(現在の諏訪公園は、樹木の成長などによって、眺望が良い公園ではありません)
このように、軍による制限を受けながらも、軍港都市・横須賀を代表する公園として整備されていった諏訪公園ですが、第二次世界大戦を境に一変していきます。

戦争に翻弄された戦中・戦後の諏訪公園

第二次世界大戦がはじまり金属が不足してくると、軍港都市・横須賀の功労者であったはずの小栗忠順(小栗上野介)とレオンス・ヴェルニーの胸像も、日本軍に供出されてしまいました。
諏訪公園には戦前から、猿や熊、鳥などがいる小動物園がありましたが、戦災による脱走の危険防止のため、熊は戦時中に駆除されてしまいました。
さらに、終戦後は、横須賀製鉄所の守護神として建てられた八幡社は、国威発揚の象徴と見なされたためか、取り壊されてしまいました。進駐軍(GHQ)の指示だったと言います。八幡社は、公園の上方に祀られていたものと考えられますが、今ではその詳細を確認することはできません。
また、横須賀海軍工廠殉職職工の招魂塔も撤去されて、今は台座だけが残っています。
戦時中に供出された小栗忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像は、1952年(昭和27年)、臨海公園(現在のヴェルニー公園)に再建されました。この際、諏訪公園に残っていた胸像の台座だけは、当初のものが利用されました。
1985年(昭和60年)には、戦時中に熊が駆除された小動物園の跡地に、動物愛護の碑が建立されています。
まるで諏訪大神社の社叢林

諏訪公園は、2023年5月現在も市の「近隣公園」となっていて、たまに草刈りがされたり整備されてはいますが、その頻度はあまり多くはないようです。遊具があったり花壇があったりするような場所でもありません。それでは自然をたのしめるのかと言われると、昭和時代やそれ以前の遺構や石碑が放置されたように残されていて、そのような雰囲気でもありません。
「公園」には憩いだったり賑わいを求める人が多いと思いますが、諏訪公園は多くの方におすすめできるような公園とは言えません。
ふもとにある諏訪大神社の社叢林と呼んだほうが、しっくりくるかもしれません。
あるいは、見方を変えれば、諏訪公園は、横須賀の軍港都市としての繁栄と没落が見て取れる、戦争遺跡の史跡公園とも言えます。
国土交通省の説明では、「近隣公園」とは以下の内容の公園と定義されています。
主として近隣に居住する者の利用に供することを目的とする公園で近隣住区当たり1箇所を誘致距離500mの範囲内で1箇所当たり面積2haを標準として配置する。
諏訪公園の往時を今に伝える桜の木々

このような諏訪公園で、戦前・戦後問わず楽しまれていたのが、お花見です。
諏訪公園の桜は、公園に残る満期記念の碑に「桜樹二百本 横須賀鎮守府大正三年度徴兵」という文字が見られることから、大正期に200本の桜が植樹されたことが分かります。
今でも横須賀を代表する桜の名所として知られる衣笠山公園と違って、現在の諏訪公園にお花見に訪れる人は多くありませんが、これらの桜は往時を今に伝える唯一の存在と言えるかもしれません。

諏訪公園に残る昭和期以前に建立された石碑やその遺構
横須賀海軍工廠殉職職工の招魂塔

横須賀海軍工廠(旧横須賀製鉄所)の殉職者の慰霊碑として建立された招魂塔の遺構です。諏訪公園が開園した1912年(明治45年)の海軍記念日に、横須賀海軍工廠工友会によって建立されました。
今は台座が残るだけですが、かつては、現在その上に立っている街灯と同じくらいの高さの塔が建っていました。毎年、海軍記念日には、横須賀鎮守府司令長官ら多くの関係者が参列して、殉職者慰霊祭が盛大に執り行われていたと言います。
満期記念の碑

「桜樹二百本」「横須賀鎮守府大正三年度徴兵」という碑文が見られ、1914年度(大正3年度)に徴兵された者の有志によって、諏訪公園に桜が植樹されたことが分かります。
江頭正五郎頌徳碑

明治時代中期に第二代横須賀町長を務めた、江頭正五郎の功績をたたえるための頌徳碑です。1917年(大正6年)に建立されました。碑文には、1889年(明治22年)の横須賀町発足時には助役を務め、1891年(明治24年)から1903年(明治36年)まで町長を任期満了まで務めた経歴などが記されています。
動物愛護の碑

動物愛護の碑は、戦前は猿や熊、鳥などがいた諏訪公園の小動物園跡地に、人と動物の永久の幸せを祈り、横須賀市動物愛護協会や横須賀三浦獣医師会らによって、1985年(昭和60年)に建立されました。
諏訪公園周辺の見どころ











