現在の良長院は、江戸時代後期の天保年間(1831年~1845年)に、三浦半島の東京湾側に位置する旧横須賀村の中心地近く(現在の横須賀市緑が丘)に創建された寺院です。
この場所には、江戸時代がはじまる前まで、「良長院」という同じ名前の寺院がありました。小田原征伐の後、徳川家康が関東に移ってくると、良長院の住職には家康の旧領であった駿河国より之源臨乎が呼ばれました。之源は家康から「菊長老」と称されるなど、二人は駿河国時代より親交があったようです。
しかし、富士山に愛着のあった駿河国出身の之源臨乎は、富士山を眺望できる地を所望し、三浦半島の相模湾側に位置する旧沼間村(現在の逗子市沼間)に寺を移し、院号も「海宝院」と改めました。
その跡地に、呑高という僧が同じ院号で寺院を再興したのが、現在の良長院のはじまりです。
山号 | 龍谷山 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 釈迦三尊 |
創建 | 旧・良長院(現・海宝院):鎌倉時代 現・良長院:1831年~1845年(天保年間) |
開山 | 旧・良長院:不詳 現・良長院:霊屋(招待開山) |
開基 | 旧・良長院:瀬尾重兵衛良長 現・良長院:呑高(事実上の開山) |
かつて横須賀軍港のおひざ元して栄え、現在も三浦半島最大の繁華街である横須賀中央エリアに隣接した地に建つ良長院は、旧日本海軍関係者や地元の商人たちとも関わりの深い寺院でした。良長院の境内では、横須賀の黎明期を偲ぶような、慰霊碑や奉納物なども見られます。
INDEX
良長院の薬師如来立像は県内で数体しか現存しない中世の鉄仏
かつての良長院(現在の海宝院)も、現在は米海軍横須賀基地内になっている旧横須賀村の泊浦(現在の横須賀市泊町)で創建され、現在地へは江戸時代以前に移転してきています。
鎌倉時代に良長院を創建した瀬尾重兵衛良長は、泊浦にあった長峯城(横須賀城)の城主で、「良長院」の名前も瀬尾重兵衛「良長」に由来します。
良長院に安置されている鉄造薬師如来立像は、こちらも同じ泊浦にあった良長院の末寺・野狐山宗慶寺(廃寺)の本尊であったものと伝えられています。この薬師如来立像は室町時代の作と考えられていて、横須賀市内で唯一、神奈川県内でも数体しか現存しない中世の鉄仏とされています。
米軍基地やドブ板通りに隣接した良長院境内
現在の良長院は、米海軍横須賀基地の外に位置していますが、メインゲートのすぐそばにあります。その間には、米軍関係者が多く訪れる繁華街として知られる、ドブ板通りもあります。
良長院はこのようなロケーションにあるため、境内の下には、「在日米軍立入禁止」を示す看板が設置されています。このような光景は、良長院周辺では所々で見られます。
出世閻魔として親しまれてきた良長院の閻魔大王
良長院の本堂の向かって左手には、閻魔堂が建っています。良長院の閻魔大王は「出世閻魔」とも呼ばれ、親しまれています。
横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)が置かれるなど、明治期以降、横須賀の軍港化が進むにつれて人口も爆発的に増えていきました。やがて、横須賀の市街地は、良長院周辺から現在の横須賀中央駅方面やその海側の埋立地へと拡がっていき、現在の横須賀中央大通り周辺には、多くの商店や企業が軒を連ねるようになっていきました。
長い間、その中心として賑わってきた三浦半島唯一の百貨店「さいか屋横須賀店」もそのような商店の一つですが、このさいか屋創業家(岡本家)をはじめ、良長院は、三浦半島で一番の繁華街へと発展していった横須賀中央界隈の多くの商人の信仰の対象となり、檀家に持つ寺院でもあります。
その他の良長院の見どころ
良長院の四季
良長院の境内では、控えめながら、四季折々の花が見られます。