諏訪大神社(すわおおかみのやしろ/すわおおかみしゃ/すわだいじんじゃ)は、京急線の横須賀中央駅と汐入駅の間の山あいに鎮座する古社です。
諏訪大神社に伝わる由緒によると、南北朝時代後期の1380年(康暦2年)、当時このあたりを治めていた三浦貞宗によって、横須賀の総鎮守として、長峯城(または横須賀城)の入口にあたる古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請して創建されたと言います。
また、これとは別に、南北朝時代前期の延元年間、北条氏得宗家(本家)最後の当主・北条高時の遺児である北条時行の命によって、諏訪明神を横須賀に祀ったのがはじまりとする由緒も伝えられています。
江戸時代には、東海道から浦賀に至る脇街道として整備された浦賀道(東回り)がすぐそばを通り、近くの港からは町屋村(現在の横浜市金沢区町屋町、海の公園南口駅の近く)まで渡船が出ているような、交通の要衝にありました。
主祭神 | 健御名方命 事代主命 |
旧社格等 | 県社、郷社 |
創建 | 南北朝時代 ※1380年(康暦2年) または延元年間 |
祭礼 | 1月1日 新年祭 2月節分 節分祭 3月23日 創立祭 5月25日に近い日曜 例大祭 10月20日 恵比須祭 |
かつての横須賀の中心地にあり、現在は米海軍横須賀基地(ベース)の入口近くにある諏訪大神社は、三浦一族が支配する時代から、横須賀の発展の歴史を間近で見守り続けてきた神様です。
近年は、主に横須賀を舞台にしたテレビアニメ「ハイスクール・フリート(はいふり)」の聖地巡礼でも人気の参拝先となりました。
INDEX
横須賀の中心地だった諏訪大神社
江戸時代までの横須賀は、交通の要衝ではありましたが、半農半漁ののどかな寒村に過ぎませんでした。
それが一変したのは、幕末に建設がはじまり、明治初期に完成した横須賀製鉄所(後の、横須賀造船所、横須賀海軍工廠。※いずれも、いわゆる「造船所」)の誕生でした。これ以降、軍港に適した地形だった横須賀港は次々に開発が行われ、横須賀港に面する横須賀村も急速に発展していきました。
横須賀村は、1876年(明治9年)に町制施行、1907年(明治40年)に市制が施行されて、市域も拡大していきました。
1912年(明治45年)には、諏訪大神社の裏山に、市民の憩いの場として諏訪公園が開園しています。諏訪公園は、旧横須賀村の村域にある公園としては、もっとも古い公園です(現在の横須賀市域にある公園としては、明治26年開園の愛宕山公園(西浦賀。当時の浦賀町)、明治40年開園の衣笠山公園(小矢部。当時の衣笠村)に次いで3番目)。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災で倒壊するまで、諏訪大神社の前には横須賀市役所がありました。横須賀市役所が現在の場所(横須賀市小川町)に移った跡地には、旧日本海軍の軍人とその家族の診療を行う横須賀海仁会病院(現在の聖ヨゼフ病院)が建設されました。
このように、現在の横須賀の中心は、京急線の横須賀中央駅周辺ですが、かつては、諏訪大神社の鎮座するあたりが横須賀の中心地だったのです。
なお、関東大震災では、諏訪大神社が避難所の一つとして使用されました。建物の倒壊や火災によって横須賀の下町一帯は壊滅状態となったため、諏訪大神社をはじめ、良長院や豊川稲荷、龍本寺などの、高台にある社寺などが避難所となりました。
「横須賀市震災誌」には、諏訪大神社へは約400人が避難したと記録されています。
後に、諏訪大神社の境内には、そのときの避難者の一部の名前が刻まれた「大震災避難記念碑」が建立されました。
横須賀氏を称した三浦一族の三浦貞宗
諏訪大神社を創建した三浦貞宗は、鎌倉時代前期に栄えた三浦氏宗家(本家)の三浦義村と、やはり三浦一族である佐原氏初代の佐原義連の流れをくむ武将で、後に美作国高田荘(現在の岡山県真庭市)の領主となる美作三浦氏の初代当主です。
三浦氏宗家は三浦義村の子・泰村の代に執権北条氏によって滅ぼされますが、佐原義連の子・盛連は北条氏と縁戚関係にあった義村の娘・矢部禅尼と結婚していたため北条氏側に味方して生き残り、後に盛連の子・盛時が三浦氏(相模三浦氏)を再興することになります。
三浦貞宗は、三浦盛時の兄弟である時連の孫にあたり、領地とした横須賀村から横須賀氏とも称していました。
長峯城または横須賀城の入口にあった諏訪大神社
三浦貞宗の居城・長峯城(横須賀城)があった詳しい場所は定かではありませんが、築城時から移転していなければ、その地名から、諏訪大神社の北側に位置し、現在、米海軍横須賀基地となっている半島のちょうど真ん中あたりにあったと考えられます。
諏訪大神社のすぐそばにある良長院も、かつては現在の米海軍横須賀基地内にあったとされ(移転してきたのは江戸時代以前)、鎌倉時代に良長院を創建した瀬尾重兵衛良長はその当時の長峯城城主でもありました。
江戸時代後期に編さんされた「新編相模国風土記稿」によると、当時の横須賀村には、坂本、塩入(汐入)、横須賀、楠ヶ浦、塔ヶ谷、堂ヶ塚、泊り、そして長峯という地名(小名)が見られます。
このうち、諏訪大神社は小名・横須賀にあって、坂本、塩入(汐入)、横須賀以外は、現在、米海軍横須賀基地となっている半島内の地名になります。
諏訪大神社は、長峯城があった半島の付け根に位置していたことになります。
米海軍横須賀基地は、戦前、横須賀海軍工廠があった場所で、前身の横須賀製鉄所/横須賀造船所の時代から現在に至るまで、軍港化にともない一般市民の立ち入りは制限されています。かつての住民は移転を余儀なくされましたが、それは寺社も同じでした。
「長峯山(長峰山)」の山号を持ち、かつて長峯にあった光心寺もその一つで、横須賀市内の衣笠栄町に移転しています。
諏訪大神社に遷された夢窓疎石の泊船庵があった白仙山の神様
三浦貞宗と同族の三浦貞連は、鎌倉時代末期から室町時代初期の高僧・夢窓疎石を横須賀に招いて、長峯城の側に、泊船庵という草庵を築いています。
夢窓疎石は自然の眺望が美しい場所を好み、寺院や庭園を設けることで知られていて、この頃の横須賀が夢窓疎石のお眼鏡にかなうような風光明媚な場所だったこともうかがい知れます。
この泊船庵は白仙山と呼ばれた山またはその周辺にあったようですが、白仙山は横須賀製鉄所建設時に切り崩されたため現存していません。
諏訪大神社の社殿の向かって左手に鎮座する白仙山神遷石祠は、この大工事を請け負った大村五左衛門らによって、工事が無事に完了した後の1871年(明治4年)、諏訪大神社境内に白仙山の神様を遷座し、祀られたものです。
白仙山自体には、とくに神社があったというわけではないようですが、近代化や軍港化という国威発揚の気運が高まるなかでも、山には神が宿るという日本の古来からの信仰が息づいていたことが分かります。
北条時行にまつわる諏訪大神社創建のもう一つの由緒
諏訪大神社創建については、もう一つ、北条時行にまつわる由緒も伝わっています。
北条時行は鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した武将で、鎌倉幕府第14代執権で北条氏得宗家(本家)最後の当主・北条高時の子です。
1333年(元弘3年)、新田義貞らによる鎌倉攻めで北条高時とその一門の多くが自害して、鎌倉幕府は滅亡します。しかし、その際、北条時行は北条家の家臣であった諏訪氏に匿われて信濃国に逃れます。
諏訪氏の後ろ盾のもと北条時行は、一時的な鎌倉の奪還に成功した中先代の乱を起こすなど、後醍醐天皇による新政に不満を持つ者や北条氏残党に呼びかけて、全国でゲリラ的な活動を開始します。
明治時代後期に編さんされた「横須賀案内記」によれば、南北朝時代の延元年間(1336年~1340年)、北条時行が伊豆国で挙兵した際、北条家の家臣だった畑宮内少輔良猥は北条家の鎮護・諏訪神璽(神璽とは、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉、または三種の神器の総称のこと)の護衛を命ぜられ、戦後、主命により横須賀に神璽を祀ったのが、諏訪大神社のはじまりとしています。
また、「横須賀案内記」には、諏訪大神社に北条時行奉納の正宗短刀などが宝物として伝わっていることや、畑良猥以降、明治後期時点で二十一代に渡って畑氏が諏訪大神社の歴代神職を務めていることなども述べられています(現在も諏訪大神社の宮司は畑氏)。
現在、諏訪大神社の境内に掲げられている由緒には横須賀城主・三浦貞宗による南北朝時代後期の創建とする説が書かれていますが、南北朝時代前期、鎌倉奪還にこだわった北条時行が、鎌倉の近くの横須賀に諏訪明神を祀って、勢力拡大の拠点の一つにしようと考えたとしても不思議なことではありません。
横須賀の総鎮守に合祀された神々
横須賀の総鎮守である諏訪大神社には、主祭神の他にも、多くの神様が合祀されています。
本殿横の相殿には、伊勢皇大神宮・大鳥神社・稲荷社・天王宮・東照宮・天満宮が祀られていて、それぞれの社が鎮座しています。