旧田浦村の村社・神明社は、村内の別々の場所に鎮座していた神明社、御霊社、貴布祢社が、大正時代初期に合併してできた神社です。現在も神明社の主祭神として、合併元神社それぞれの御祭神(御食津神:旧神明社、吉備霊:旧御霊社、闇龗神:旧貴布祢社)を祀っています。
明治から大正にかけて行われた国の神社合祀の政策(一村一社の令)では、地域の中心となる神社に周辺の小規模な神社が合祀された結果、古くから祀られていた神社名や神様の存在が忘れられていくケースが多くみられました。しかし、田浦神明社では、主祭神として3柱祀られていたり、かつての社殿が持ち寄られていたり、地域の伝統を継承し、できるだけ対等に合併しようとした思惑のようなものも見え隠れしています。
田浦神明社の7月の祭礼「天王祭」は、かつて貴布祢社と隣り合って祀られていた、暗雲社(八雲社。江戸時代までは牛頭天王社)のお祭りです。
主祭神 | 御食津神 吉備霊 闇龗神 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1428年(正長元年) |
祭礼等 | 1月1日 新年祭 2月節分 節分祭 3月3日 春祭 7月土曜日 天王祭 9月 例大祭 11月23日 秋祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
1914年(大正3年)、田浦村の村社・神明社と御霊社、貴布祢社は合併し、新しい「神明社」となりました(合併の届出許可は、その前年の1913年(大正2年))。その後、1918年(大正7年)に、旧御霊社の境内を拡張したうえで、現在地に遷っています。
現在の田浦神明社の拝殿は旧貴布祢社の社殿で、本殿は旧御霊社の社殿だったものです。これらの社殿は、それぞれ、横須賀の諏訪神社(諏訪大神社)の本殿・社殿だったもので、1889年(明治22年)に諏訪神社が社殿を新築した際に、不要となった建物を譲り受け、移されました。貴布祢社と御霊社で離れ離れになっていた諏訪神社の旧社殿が、およそ30年の時を経て、田浦神明社で再び一つになったことになります。

INDEX
穀物・食物を司る神を祀る旧神明社
合併後の神社名として存続することになった旧神明社は、室町時代中期の1428年(正長元年)に創建されたと伝えられています。1873年(明治6年)には、田浦村の村社に指定されています。この旧神明社は、現在の田浦町5丁目(旧田浦村字大山田)にあたる、京急線ガード脇の盛福寺側の山上に鎮座していました。
この旧神明社の前を通る道は、東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」でした。今でこそ、この辺りは、電車が通過するとき以外は静かな谷戸ですが、江戸時代は幹線道路に面して建っていたことになります。
田浦地域文化振興懇話会によって2005年に発行された冊子「田浦をあるく」によれば、古老の話として、旧神明社が鎮座する山は伊勢山と呼ばれていて、天照皇大神を祀る社であったことから、「御伊勢山大神宮」とも呼ばれていたと伝えています。
しかし、1879年(明治12年)から1920年(大正9年)にかけて神奈川県がまとめた「明治12年 神社明細帳(三浦郡)」には、1879年(明治12年)の記録として御食津神を祀る「神明社」と記載されています。江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」にも「神明社」と載っていますが、御祭神までは記載されていません。
現在の田浦神明社に祀られている御祭神の一柱でもある御食津神(宇迦之御魂神、ウカノミタマ)は穀物・食物を司る神で、伏見稲荷大社や全国の稲荷社の多くで祀られている稲荷神と同一視されています。また、伊勢神宮外宮の御祭神と同じ、天照大神の食物を司る神でもあります。
一般的に神明社は、天照大神を御祭神として祀ることが多いものです。この田浦の旧神明社が、もともと天照大神を祀っていた神明社がいつしか御食津神を祀るように変化していったのか、もともと穀物・食物を司る神を祀る神社として創建しそれを神明社と呼んでいたのかは、詳しい由緒が伝えられていないため分かりません。
今ではほとんど見られなくなりましたが、かつては田浦の小さな谷戸にも、田畑が広がっていたことでしょう。天照大神を祀るよりも、穀物・食物を司る御食津神を祀った方が、人々の暮らしにはより実用的だったと考えられます。少なくとも江戸~明治期の村人にとって、最大級の関心ごとが農耕の出来だったということをうかがい知ることができます。

武勇にすぐれた神を祀る旧御霊社
もとは現在の田浦神明社境内(旧田浦村字向田)に鎮座していた旧御霊社は、岡山の吉備津神社の御祭神と同じ吉備霊(吉備津神社では吉備津彦命)を祀る神社でした。吉備津彦命は吉備国(現在の岡山県とその周辺)を平定した人物とされ、おとぎ話「桃太郎」のモデルの一人とされています。
しかし、「田浦をあるく」によると、かつての御霊社は平安時代後期に活躍した武将・鎌倉権五郎景政を祀る神社だったとされます。鎌倉権五郎景政は16歳の時、源義家に従って後三年の役に従軍した際に、左目を射抜かれながらも敵を倒したという武勇がよく知られています。この武勇にあやかり、鎌倉やその周辺では鎌倉権五郎景政を祀る「御霊神社」が少なくなく、田浦の御霊社も、鎌倉・坂ノ下の御霊神社(権五郎神社)を勧請して創建されたと伝えられています。
「明治12年 神社明細帳(三浦郡)」には、1879年(明治12年)の日付で、御霊社の御祭神は吉備霊と書かれています(この史料は大正前期に発行されたものであるため、実際に「1879年(明治12年)」に記録された内容であるとは限りません)。旧御霊社の御祭神がどのような理由で、この地域周辺ゆかりの鎌倉権五郎景政から、遠い国の吉備霊に変わったのか定かではありませんが、武勇にすぐれた神ということにおいては共通しています。
旧御霊社が鎮座していた田浦の海岸地域では、明治から大正にかけて、横須賀海軍軍需部などの旧日本海軍の施設が建ち並ぶようになっていきました。軍関係者も多く住むようになったことから、旧御霊社の運営にも関わるようになり、このことが御祭神に影響を与えたという可能性も考えられます(推測の域を出ません)。

雨を司る神を祀る旧貴布祢社
旧貴布祢社は、現在の田浦大作町の谷戸入口(旧田浦村字小山田)に鎮座していた神社です。旧神明社、旧御霊社との合併後、昭和初期に京急線(当時は湘南電気鉄道)が開通した際、旧貴布祢社の境内一帯の多くがこの用地になったと言います。
旧貴布祢社の御祭神・闇龗神は、奈良・吉野の丹生川上神社や京都・鞍馬の貴船神社の御祭神(貴船神社では高龗神)と同じで、雨を司る神とされています。闇龗神の「闇」は谷を意味し、「龗」は龍神のことで、この地域の谷戸の雨乞いの神様として信仰されてきたことが分かります。神様こそ違いますが、旧神明社と同様、農耕の出来が重要だったことをうかがい知ることができます。
旧貴布祢社の隣りには暗雲社が鎮座していました。「田浦をあるく」によると、江戸時代までは「牛頭天王社」だったものが神仏分離令によって「八雲社(やくもしゃ)」となり、いつしかそれが同じ読み方の「暗雲社(やくもしゃ)」と称されるようになったと言います。
旧貴布祢社の御祭神・闇龗神にも通じるところがあるような社名で、当時の村民の遊び心が伝わってくるようなエピソードです。
この暗雲社も、旧貴布祢社が合併した際に、田浦神明社に合祀されています。

田浦神明社境内のその他の見どころ




田浦神明社周辺の見どころ




