江戸時代の三浦半島と言えば、ペリー来航から横須賀製鉄所建設に至る幕末ばかりが注目されがちですが、実は江戸時代初期の三浦半島もいろいろなトピックスがあったんです。その中心にいたのは、あの、江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康です。
徳川家康は、自らの新領地となった三浦半島に優秀なブレーンを配置しました。それはまさに適材適所と呼べるもので、目利きが優れた徳川家康の指導者としての有能さも垣間見えます。
この家康のブレーンたちは、それぞれ主人公として華やかに語られることはあまり多くありませんが、助演に徹して近世の三浦半島をかたちづくった名脇役たちです。
INDEX
三浦半島の代官頭・長谷川長綱
三浦半島の民政全般を担った長谷川長綱
豊臣秀吉が小田原征伐(小田原合戦、北条攻め)で後北条氏(小田原北条氏)を敗ると、秀吉に服従していた徳川家康は、秀吉の命により、後北条氏の旧領であった関東へ領地を移されました。
江戸城に入った徳川家康は、江戸湾(東京湾)の入口に位置する三浦半島を、自らの直轄地とし、代官頭として長谷川長綱を置きました。
「代官頭」とは検知や地方行政などを担う役職で、家康は新たな所領を円滑に治めるため、関東に伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安、そして長谷川長綱という、旧領での実績があった4人の家臣を置きました。
4人のなかでも長谷川長綱が管轄した範囲(三浦半島や川崎周辺など)はとくに狭いものでした。これは、単に長綱の権力が強いものではなかったと受け取ることもできますが、それだけ三浦半島に集中して仕事をしろという家康からのメッセージだったのかもしれません。
長谷川長綱は江戸湾に面した浦賀に陣屋を置いて、本拠地としました。現在愛宕山公園がある辺りは、かつては陣屋山とも呼ばれていて、少なくとも江戸時代後期までは浦賀に「陣屋山」という地名も残っていました。
長谷川長綱ゆかりの地
東逗子(逗子・沼間)の海宝院には、長谷川長綱とのその一族の墓があります。
国際貿易港「浦賀」の立役者・三浦按針
徳川家康の外交交渉の窓口を担ったウィリアム・アダムス
江戸時代の浦賀というと、浦賀奉行所の存在が有名ですが、浦賀に奉行所が置かれたのは江戸時代中期の1720年(享保5年)のことです。
しかし、長谷川長綱が本拠地とした江戸時代初期の浦賀は、すでに三浦半島の中心地だったと言えます。
浦賀に陣屋が置かれたのは、もちろん、浦賀湊(浦賀港)の存在に他なりません。
江戸湾の海防や交通の拠点としての位置づけはもちろんのこと、徳川家康は、浦賀を国際貿易港にしようと計画していました。
戦国時代から安土桃山時代にかけての海外との貿易は、東南アジアに近いというその地理的条件から、九州をはじめ、西国の大名の独壇場でした。豊臣政権下で最大の石高をほこる領地を持つ大大名となった徳川家康が、アジア各国の物資や西洋の最新技術を得るために、自国である関東で貿易をしたいと考えたのはごく自然なことと言えます。
南蛮貿易と呼ばれた当時の日本と東南アジアとの貿易は、その名の通り、南蛮人と呼ばれたポルトガル人やスペイン人が主役となって行われた貿易でした。彼らは、母国であるポルトガルやスペインをはじめとしたヨーロッパ諸国の植民地との間や、当時、海禁政策によって日本との貿易を禁じていた明(当時の中国)との間の貿易の中継をしていました。
この南蛮貿易ではマカオ(現在の中国南岸)を拠点としていたポルトガルが先行していましたが、徳川家康はマニラ(現在のフィリピン)を拠点とするスペインを交渉相手に選びました。実際に浦賀へは、当時いずれもスペイン領だったマニラとメキシコを結ぶ定期航路が寄港するようになりました。
このとき、交渉役として活躍したのが、三浦按針です。
按針は、本名をウィリアム・アダムスというイギリス人(イングランド人)で、オランダのロッテルダムから極東を目指して航海に出て、日本にたどり着きました。1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いの約半年前のことです。
当時の世界情勢などにも長けていたアダムスは、浦賀からもほど近い三浦郡逸見村(現在の横須賀市西逸見町周辺)の領地と、その「三浦」郡と彼の職業であった水先案内人の意味を持つ「按針」を掛け合わせた「三浦按針」という日本名を与えられ、徳川家康の外交顧問として雇われました。
三浦按針が三浦半島に領地を与えられたのは、もちろん、徳川家康による浦賀を国際貿易港とする計画の一環であると考えられ、浦賀には「アンジン屋敷」があったという言い伝えが残っています。
三浦按針ゆかりの地
三崎を本拠地とした御船奉行・向井水軍
三浦半島の海防を担った向井正綱・忠勝
三浦半島の民政全般を担ったのが長谷川長綱、海外との貿易をするべく外交を担ったのは三浦按針でしたが、海に囲まれた三浦半島の海防の中心にいたのが、向井正綱(政綱)・忠勝父子でした。
向井正綱は、父・正重より甲斐の武田水軍の将として家督を継ぎましたが、主君の武田勝頼が滅亡すると、今度は徳川水軍として徳川家康に仕えるようになりました。
徳川家康が関東に移ってくると、向井正綱もまた、家康の直轄地となった三浦半島や江戸湾の海防の要とも言える三崎に移ってきました。このとき、三崎四人衆や徳川御船手四人衆などと呼ばれた徳川水軍の将、小浜氏、間宮氏、千賀氏も、三崎へ移り住んでいます。
小浜、間宮、千賀の3氏が江戸へ引きあげた後も、向井正綱の子・忠勝が三崎奉行として三崎に残り、向井氏の当主は代々「将監」の名を世襲しながら、江戸時代初期の三浦半島の海防を担いました。
向井将監忠勝は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の命を受けて、江戸幕府史上最大とされる徳川将軍家のための御座船「安宅丸」を建造したことでも知られています。
向井忠勝がそのような船を造れたのは、なんらかのかたちで三浦按針から造船技術を習得していたものと考えられます。
向井正綱の妻は長谷川長綱のきょうだい(姉または妹)、向井忠勝の妻は長谷川長綱の娘というように、向井家と長谷川家は婚姻関係を続けていて、家同士で支え合いながら、両家は江戸時代初期の徳川家と三浦半島の発展に貢献しました。
徳川家康の三浦半島のブレーンたちは、それぞれがリーダーシップを取れる有能な人物でしたが、互いに協調しながら動くことができる関係を築いていたことをうかがい知ることができます。
向井正綱・忠勝ゆかりの地
三崎の見桃寺には、向井将監一族の墓があります。
家康が愛した景勝地・金沢八景
金沢八景の東照宮
向井水軍は、三浦半島の海防だけでなく、関ヶ原の戦いなど、徳川家康が関東に入った後、天下を取るまでの重要な戦いにも、三浦半島から参戦しました。
その関ヶ原の戦いの直前、大阪から会津へ上杉景勝征伐に向かう際、徳川家康は大きな戦の前の貴重な1日を金沢八景で過ごしています。また、晩年、駿府に隠居してからも、江戸へ赴く際は金沢八景に立ち寄っていました。
徳川家康は、三浦半島の入口にあたる、金沢八景や鎌倉を好んで訪れたことで知られています。鎌倉はもちろん、家康自身が尊敬していたという源頼朝ゆかりの地ということで、特別な存在だったのでしょう。金沢八景もそのような側面があったと考えられますが、家康は景勝地・金沢八景として美しい風景に魅せられたと言われています。
金沢八景は、江戸時代後期以降、本格的に観光地や別荘地として人気が高まっていきますが、家康は先見の明があったと言えます。
そんな金沢八景には、家康の死後、かつて景勝地・金沢八景を一望できた権現山に、東照宮が祀られました。「東照宮」とは、死後、朝廷から「東照大権現」の神号を賜った徳川家康を祀る神社のことです。
権現山の東照宮は、明治初期の廃仏毀釈によって瀬戸神社に合祀されたため単独の神社としては残っていませんが、その跡地は金沢八景権現山公園として整備されています。
徳川家康ゆかりの地
浦賀の東照宮
三浦半島には現存する東照宮もあります。小さな社殿(祠)ではありますが、浦賀湾を望む、東叶神社の裏山に祀られています。地元・三浦半島でもあまり知られた存在ではありません。
徳川家康が夢見た関東での国際貿易は、以下のような事象が重なり、短い夢で終わりました。
- 天下統一と駿府での大御所政治の開始・・・長崎や堺が江戸幕府直轄領となり、家康はより大局的に全国を見るようになった。
- キリスト教の布教に重きを置いたスペイン側と通商に重きを置きたい家康との利害関係の不一致・・・1612年から1613年にかけて(慶長17年・18年)家康主導で禁教令を公布した。
- 家康の死後、いわゆる鎖国政策の開始・・・キリスト教勢力のさらなる排除を目的とし、中国以外との貿易を長崎・平戸の2港に制限した。
家康の死からおよそ250年続いた徳川将軍家の世も、開国を受け入れた後、幕末と呼ばれる激動の時代を経て、終焉を迎えました。
皮肉なもので、家康が目指していた、海外の技術も取り込めるような開かれた港の実現は、江戸幕府の崩壊とともにやって来ました。
その開国の舞台となった浦賀湾を見下ろす山上では、今も静かに徳川家康が三浦半島を見守り続けています。