安浦神社は、明治後期から大正初期にかけての埋め立て事業によってできた横須賀・安浦町の鎮守です。
神奈川県神社庁の史料によると、安浦神社の由緒は、海軍用地となった楠ヶ浦町(現在の米海軍横須賀基地内)から安浦町に集団移住して来た小林房治郎氏らによって、1916年(大正5年)に創建されたと言います。その際、楠ヶ浦町の氏神は諏訪大神社(横須賀市緑が丘)だったため、安浦神社は諏訪大神社から神霊の勧請を受けて創建されています。
安浦神社は、埋立地に鎮座する神社と言うこともあり、鎮守の杜はなく、周囲は住宅地や商業地になっています。平成期には安浦町の地先がさらに埋め立てられ、海岸線が遠のきましたが、かつての安浦神社は安浦港(現存せず。現在の新安浦港は、安浦町地先の埋め立てによってできた平成町にある漁港です)に隣接していました。
主祭神 | 健御名方命 八坂戸売命 事代主命 |
旧社格等 | ― |
創建 | 1916年(大正5年) |
祭礼等 | 1月1日 新年祭 2月節分 節分祭 6月第1土曜日・日曜日 例大祭 9月 供養塔慰霊祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
安浦神社は緑が丘の諏訪大神社から分霊された神社のため、主祭神は諏訪大神社と同じ健御名方命と事代主命を祀っています。
もう一柱の八坂戸売命は健御名方命神の妃神とされる神です。八坂戸売命には治水の伝説があることから、埋め立て事業の完成と、海に面した安浦町を守ってもらう願いを込めて、主祭神に加えられたものと考えられます。勧請元の諏訪大神社にはみられない、安浦神社ならではの特徴です。
INDEX
楠ヶ浦町からの移住者のよりどころとなった安浦神社

安浦町の埋め立て事業は、はじめ、代々地元の名主をつとめた永嶋庄兵衛家によって着工されました。永嶋家は旧豊島町公郷字田戸に家を構えていて、埋立地はその前に広がる田戸海岸の沖合にあたる場所でした。
しかし、明治後期からはじめられた埋め立て事業は難航を極め、1916年(大正5年)には永嶋家がこの事業から手を引き、その権利は安田保善社(当時は「保善社」という名称。現在の安田不動産で、旧安田財閥の中核企業)に譲渡されることとなりました。安浦神社が創建されたのもこのころです。
その後、安浦町の埋め立て事業が完成したのは、1922年(大正11年)のことです。「安浦町」という町名が付けられたのもこのときで、安田の「安」と港を意味する「浦」から名づけられました。
横須賀軍港の拡張によって楠ヶ浦町から集団移住して来た住民は、永嶋家が手がけた初期の埋立地に住みはじめたことになります。
諏訪大神社を勧請した当初は、神輿庫を仮の社殿としていたと言います。どのようなかたちにしろ、新しい土地で、慣れ親しんだ神様のいる神社の存在は、大きな心のよりどころになったことでしょう。
なお、この時点(1916年(大正5年))ではまだ「安浦」という呼び名はなかったはずですので、「安浦神社」と名乗るようになったのは、もう少し後になってからということになります。
現在の鉄筋コンクリートの社殿に改築されたのは、昭和前期のことです。

震災避難民や銘酒屋の人々の精神的支柱
安浦町の埋め立ては民間事業として行われたものでしたが、完成後は、その翌年の1923年(大正12年)に発生した関東大震災と、それを受けた横須賀市の方針に翻弄されて、数奇な運命をたどることになります。
関東大震災では、横須賀の市街地も大きな被害を受けました。埋立地である安浦町も例外ではなく、「横須賀市震災誌」によると、『安浦埋地に至りては罅裂、移動、陷沒、隆起、地辷の跡到る處に生じ、殆ど全部を擧げて破壞其ものである、即ち埋立地の地盤の如何に粗雜なるかを語る好標本と云ふべし・・・』とあり、甚大な被害を受けたことが分かります。とは言え、まちづくりがはじまって間もない安浦町には広大な空地があったため、横須賀市からの要請により、避難民を収容するためのバラックが建設されました。その数は、大滝町の埋立地とあわせて72棟にも及んだと言います。この安浦町の避難所は「田戸バラック部落」などと呼ばれ、とたんに、市内のあらゆる職業の人が集まる集落が形成されることになりました(「田戸」は、埋め立て前の海岸線沿いの地名です。まだ「安浦」という地名が定着していなかったのかもしれません)。
この関東大震災後の混乱期から昭和にかけての安浦町は、「銘酒屋」と名乗る私娼を置く風俗街としての一面も持っていました。銘酒屋が集まることで、その周辺に通常の商業施設も集まり、結果的にまちとして発展していくことになりました。「赤線街」や「赤線地帯」などとも呼ばれ、戦後もしばらく続きましたが、現在は廃止されています。
これも、安浦町が、軍都・横須賀という特殊な市街地に隣接する新しいまちだったがゆえに、与えられた運命と言えます。
平成期には、安浦町の沖合が埋め立てられることになり、「安浦」の地名のうち「浦」(港)が消えることになりました。現在の安浦神社の海側(境内の右側)に広がるマンション群や大学などは、この埋め立てによって出来た新しいまち「平成町」です。
安浦神社は、こうした安浦町の歴史を、そのはじまりからすべてを見守ってきた生き証人のような存在です。
創建当初は楠ヶ浦町から集団移住してきた人たちのものでしかありませんでしたが、田戸バラック部落の震災避難民や、銘酒屋の娼婦や従業員、そして現在は平成町の人たちも含めた地域住民も、必要な人には大きな精神的な支えとなってくれていたはずです。

安浦神社と、四大財閥・旧安田財閥と元内閣総理大臣・小泉純一郎

現在の安浦神社の玉垣には、平成改修時の奉納者の名前が見られます。
この中には、地元の有力企業や有力者、氏子の人々に混じって、安浦町の埋め立て事業を完成させた安田保善社の流れをくむ安田不動産の名前も見えます。「安浦」から「浦」は消えてしまいましたが、「安」は残っています。地元企業でもない一民間企業が、宣伝効果があるわけでもないこのようなローカルな神社と、100年近くたっても関わりを持ち続けるということは、なかなかできることではないでしょう。安田財閥が日本の四大財閥の一つにまで育つ過程で、安浦は重要な土地だったのかもしれません。
安田保善社の2つ隣りには、元内閣総理大臣の小泉純一郎氏の名前も見えます。小泉家は安浦神社の近所に邸宅があり、この地域の現代の有力者と言えます(正確には、小泉邸の住所は安浦町のお隣りの三春町で、三春町の氏神様は春日神社)。
小泉純一郎元総理は、安浦神社改修に対する奉納のおよそ10年後、内閣総理大臣に選ばれています。安浦神社の神様からの、大きな恩返しだったのかもしれません。
農林水産大臣や環境大臣などを務めた小泉進次郎氏も、実家最寄りの神社にあたる安浦神社や氏神様である春日神社は子どものころから身近な存在であり、たびたび参拝に訪れているようです。


安浦神社周辺の見どころ



