禅林寺は、室町時代の武将で第4代鎌倉公方の足利持氏が開いた寺に、その子である第5代鎌倉公方・初代古河公方の足利成氏が父の供養のため、下総国の東昌寺2世・能山聚藝(能山聚芸)禅師を招いて開いたと伝わる寺です。
中興開基は、戦国時代にこの地を治めていた後北条氏の家臣・伊丹三河守永親で、一族の先祖供養のために禅林寺を再興したと伝えられています。禅林寺には、現在も、伊丹氏一族の墓があります。
山号 | 竹嵓山 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 薬師瑠璃光如来 |
創建 | 1493年(明応2年) |
開山 | 能山聚藝 |
開基 | 足利持氏 |
東照大権現の御神影が一般公開される徳川家康公供養の行事
禅林寺があるあたりは、かつては「坂本」(武蔵国久良岐郡坂本村、後に赤井村・宿村と合併して釜利谷村)という地名でした。現在も、最寄りのバス停名に「坂本」の名前が見られます。
江戸城内の紅葉山東照宮の別当を兼ねていた浅草寺知楽院別当・忠尊が、禅林寺を中興開基した伊丹三河守永親の孫であったという縁から、江戸時代前期の寛永年間に、坂本村が紅葉山東照宮領となりました。また、このような関係から、禅林寺に東照大権現(徳川家康)の御神影(神様の姿を写した御札)が下賜されることになりました。
現在も禅林寺では、毎年、徳川家康の命日にあたる4月17日に、徳川家康公供養の行事として御神影が一般公開されます。
▼その他の横浜金沢の徳川家康ゆかりの地▼
六浦(六連)湊が近かったことを物語る金毘羅宮
禅林寺のある釜利谷(旧坂本村)周辺は、現在は東京湾から離れた内陸に位置しています。しかし、江戸時代以降に泥亀新田の開発がされて埋め立てられるまでは、このすぐ近くまで入り江が迫っているという地形でした(実際には、江戸時代以前から、徐々に埋め立てられていたと考えられます)。
この、六浦(六連)と呼ばれた天然の良港は、中世より、鎌倉の外港として栄えていました。対岸の上総国などの房総半島や日本各地との貿易や人の交流が、盛んに行われていたことでしょう。
禅林寺の近くに屋敷を構えていたという伊丹氏もこうした交易に関与していたと考えられます。
禅林寺の山門のすぐ横には、金毘羅宮が祀られています。金毘羅宮は、古来より航海の守護神として信仰されてきた神様ですが、かつては海の近くに面していたことを物語るように、この場所に建っています。
禅林寺と東光禅寺によって営まれる畠山重保公顕彰墓参会
鎌倉時代、現在の釜利谷周辺には、武蔵国の有力武将だった畠山重忠とその一族の領地がありました。畠山氏の本拠地は現在の埼玉県の北西部にありましたが、鎌倉に幕府が開かれると、鎌倉に近いこの地にも拠点をつくったと考えられています。
その名残は釜利谷周辺のいろいろな場所に残っています。東光禅寺は畠山重忠が開いたと伝わる寺で、境内には畠山重忠の供養塔が建っています。東光禅寺の近くには、重忠の子・畠山重保の墓と伝わる五輪塔や重保の幼名である六郎にまつわる地名も伝わっています。
畠山重保の墓は禅林寺の境外墓地となっていて、毎年、重保の命日である6月22日には「畠山重保公顕彰墓参会」が営まれています。