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徳川家康ゆかりの地【横浜金沢編】家康お気に入りの金沢八景&金沢文庫

徳川家康ゆかりの地【横浜金沢編】家康お気に入りの金沢八景&文庫 歴史上の人物
三浦半島日和おすすめ記事

全国的にはあまり知られていませんが、現在の横浜市金沢区には徳川家康とくがわ いえやすとゆかりのある場所が数多くあります。
家康江戸に幕府を開くと、江戸は日本の中心都市として大きく発展し、江戸時代中期には人口100万人を超える世界有数の大都市になりました。戦乱の世から安寧の世になると、江戸庶民は観光を楽しむようになりました。その人気コースの一つが、景勝地である金沢八景かなざわはっけいを通って古都・鎌倉に入り、江の島詣をするというものでした。

徳川家康はこの定番観光コースにいち早く着目し、実践していた人物です。金沢八景の風光明媚な景色が家康のお気に入りだったことに疑いの余地はありませんが、その端々で、家康も尊敬していたという源頼朝みなもとのよりともの存在が見え隠れしているのも、興味深いところです。
現代ではいわゆる「聖地巡礼」がブームになっていますが、きっと徳川家康も、源頼朝聖地巡礼めぐりを楽しんでいたという側面もあったのでしょう。

徳川家康源頼朝をめぐる旅は、実在するスポットに留まりませんでした。日本最古の武家文庫である金沢文庫に収められていたものを中心に鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡あずまかがみ」を収集し、愛読していたことで知られています。
徳川家康は、この「吾妻鏡」から源頼朝が生きた鎌倉時代の歴史をひも解いて、わずか3代で滅んだ源氏将軍を反面教師に、15代におよぶ徳川将軍の時代の基礎を築くことができたのかもしれません。

マップは、スマートフォンやタブレットでは二本指で操作できます。

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かつて東照宮が祀られていた 金沢八景権現山公園(旧円通寺客殿)

金沢八景権現山公園かなざわはっけいごんげんやまこうえんは、徳川家康ゆかりの旧円通寺えんつうじ境内に整備された公園です。京急線・金沢八景駅ホームの金沢文庫駅寄りから間近に見える、茅葺屋根が特徴の日本家屋は、円通寺客殿として使用されていた建物です。

公園の名前になっている「権現山ごんげんやま」とは、旧円通寺客殿の裏山にあたる山のことです。かつて、権現山の山腹の平地には東照宮があり、円通寺はその別当寺(神社を管理するための寺院)でした。
東照宮」とは、日光東照宮久能山東照宮に代表されるように、徳川家康を祀る神社のことです。家康は死後、朝廷から「東照大権現」の神号を賜りました。

徳川家康は、生前、この権現山から望む金沢の風光明媚な景観を気に入っていたとされています。家康は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの直前、大坂城から会津上杉征伐へ向かう途中に、この地を訪れています。その気に入りようは、晩年、駿府に隠居してからも、江戸へ赴く際は権現山に立ち寄っていたというほどです。

円通寺は、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となり、東照宮もこの場所からほど近い瀬戸神社に合祀されました。
このとき、東照宮円通寺の本堂は取り壊されましたが、旧円通寺客殿は、還俗した円通寺最後の住職・木村芳臣の住居になりました。旧円通寺客殿は、これ以降、5代にわたって木村家住宅として使われてきました。

旧円通寺客殿(旧木村家住宅主屋)は、東照宮を参拝する上客の休憩所として使われていたと考えられています。
純日本家屋の質素な室内で目立つのは、部屋の随所で黄金色に輝いている「葵の御紋」です。「葵の御紋」は徳川将軍家の家紋で、部屋の随所にあるのは、これが釘の頭を隠すための釘隠しの装飾に使われているためです。
それぞれは小さなものですが、徳川家康ゆかりの場所であることを、もっとも強く実感させられる装飾です。

●住所
横浜市金沢区瀬戸20-3

●駐車場
なし

●公共交通機関
京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より徒歩約1分

金沢八景権現山公園(旧円通寺客殿)(撮影日:2022.03.28)
金沢八景権現山公園(旧円通寺客殿)
金沢八景権現山公園・権現山公園頂上(平潟湾方面を望む)(撮影日:2022.05.06)
金沢八景権現山公園・権現山公園頂上(平潟湾方面を望む)

周辺の見どころ
瀬戸神社&琵琶島神社
平潟湾プロムナード

権現山東照宮の石灯篭が残る瀬戸神社

瀬戸神社は鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)源頼朝が、琵琶島神社頼朝の妻・北条政子が、それぞれあつく崇敬していた三嶋明神竹生島弁財天を勧請して創建された神社です。

瀬戸神社の目の前に広がっていた六浦の港は、鎌倉時代から江戸時代初期まで、鎌倉や江戸の重要な貿易港として栄えました。瀬戸神社も、金沢北条氏鎌倉公方後北条氏などの歴代の権力者たちの保護を受け、信仰されてきました。とくに、徳川家康は百石の社領を寄進するなど、瀬戸神社をあつく崇敬していました。

東照宮瀬戸神社に合祀された際、東照宮の石灯篭も瀬戸神社に移され、その姿は現在も国道16号沿いに建つ鳥居から入ってすぐの参道で目にすることができます。

瀬戸神社・東照宮の石灯籠(撮影日:2022.05.06)
瀬戸神社・東照宮の石灯籠
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源氏好きの徳川家康らしい逸話が残る 龍華寺

龍華寺りゅうげじは、金沢八景駅と金沢文庫駅の間の横浜市金沢区洲崎町にある、「華の寺」として知られる古刹です。
寺のはじまりは、平安時代末期の文治年間(1185年~1190年)、源頼朝文覚上人とともに、瀬戸神社の別当寺として六浦の山中に創建した浄願寺じょうがんじで、その後、室町時代中期の1499年(明応8年)に、融弁上人によって現在地にあった光徳寺と統合され、龍華寺となったと伝えられています。
開基の菅野資方は、扇谷上杉家の家臣です。他にも、扇谷上杉家の筆頭重臣(家宰)で後に徳川家康の居城となる江戸城の基礎を築いた太田道灌不動明王像を、古尾谷重長梵鐘を寄進するなど、龍華寺の創建には扇谷上杉家の家臣団が深く関わりました。

1591年(天正19年)、徳川家康龍華寺を訪れた際、寺名を「りゅうげんじ」と伝え間違え(あるいは、聞き間違え)、これを聞いた家康は「立源氏」という響きは吉兆の寺号だと言い、「龍源寺」と名付けさせたという逸話が残っています。また、家康源頼朝のことを尊敬していたというエピソードの一つでもあります。

●住所
横浜市金沢区洲崎町9-31

●駐車場
あり

●公共交通機関
・京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より、徒歩約12分
・金沢シーサイドライン「野島公園駅」より、徒歩約10分
・金沢シーサイドライン「海の公園南口駅」より、徒歩約12分
・京急線「金沢文庫駅」より、徒歩約18分

龍華寺・御室桜と本堂(撮影日:2023.03.29)
龍華寺・御室桜と本堂
龍華寺・花手水(撮影日:2023.03.29)
龍華寺・花手水
※常に花手水がディスプレイされているわけではありません

周辺の見どころ
海の公園

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徳川家康に「吾妻鏡」などを貸し出した 金沢文庫

日本初の武家政権を築いた源頼朝を尊敬し、清和源氏の末裔と公言していた徳川家康は、散逸していた鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡あずまかがみ」を収集して、愛読書としていました。

その大部分は金沢文庫かねさわぶんこに所蔵されていたものが元であるとされています。「吾妻鏡」は全巻そろって見ることができず、現存する巻も、年単位で欠落している箇所のあることが知られています。
この「吾妻鏡」の「金沢文庫本」が徳川家康の手に渡り、「金沢文庫本」以外の「吾妻鏡」からも増補されたものが、現在一般的に見られる、いわゆる「北条本」と称される「吾妻鏡」であるとみられています。

金沢文庫は、鎌倉時代に北条実時ほうじょう さねとき金沢北条氏かねさわ ほうじょうしの実質初代)が設けた日本最古の武家文庫です。その後も、金沢北条氏顕時貞顕貞将の三代に渡って、蔵書の充実がはかられていきました。
現在は、鎌倉時代を中心とした中世の歴史博物館神奈川県立金沢文庫かなざわぶんこ」として、すぐお隣りにある称名寺に伝わる貴重な資料を中心に、展示・保管されています。

好学の士であった徳川家康は、日本最古の武家文庫である金沢文庫(の蔵書)がお気に入りだったことで知れらていて、「吾妻鏡」以外の多くの蔵書も江戸城富士見亭文庫(後に紅葉山文庫へ移転)へ持ち出しています。その蔵書のほとんどは、いまだに「貸出中」のままになっています(国立公文書館や宮内庁に引き継がれ、管理されています)。

●住所
横浜市金沢区金沢町142

●駐車場
なし(障がい者用駐車場のみあり)

●公共交通機関
京急線「金沢文庫駅(東口)」より、徒歩約15分、または、京急バス「柴町」行きで『称名寺』下車、徒歩約5分
もしくは、金沢シーサイドライン「海の公園南口駅」より、徒歩約15分

金沢文庫(撮影日:2020.08.15)
県立金沢文庫
称名寺(撮影日:2022.11.25)
称名寺

周辺の見どころ
称名寺市民の森・北条実時の墓

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徳川家康が愛した金沢八景の根元地・能見堂

能見堂のうけんどうは、正式名称を擲筆山地蔵院てきひつざんじぞういんと言った寺院で、1869年(明治2年)に火事にあった後は、再建されることがありませんでした。能見堂が建っていた場所は標高75mほどの高台の、江戸時代には、東海道保土ヶ谷宿浦賀を結ぶ浦賀道(六浦以北は別名・金沢道)や鎌倉・江の島へ通じる観光ルートの道すじにありました。人々が行き交う街道沿いにあったことに加えて、この場所から見る景色が素晴らしかったため、能見堂は多くの人が立ち寄る、人気の観光スポットでもありました。

現在も駅名などで見られる「金沢八景」という名称はこの能見堂から見る景色に由来していて、中国の景勝地・瀟湘八景しょうしょう はっけいにならって金沢村(現在の横浜市金沢区)周辺の美しい風景8か所を選んだものをこのように呼ぶようになったと言われています。そのことを示すように、能見堂跡には、江戸時代に建てられた「金沢八景根元地」の石碑が、今も残っています。

能見堂から見る金沢八景の景色は、徳川家康江戸城の襖絵に描かせた(現地の案内板より)というほどお気に入りで、その後も、歌川(安藤)広重をはじめとした絵師や文人、墨客が題材にするなどして人気は広まり、江戸時代を通じて賑わいを見せていたようです。

●住所
横浜市金沢区能見台森

●駐車場
なし

●公共交通機関
京急線「金沢文庫駅」より徒歩約25分
または
京急線「能見台駅」より京急バス「釜利谷高校」行きで『能見堂緑地前』下車、徒歩約10分

能見堂跡(撮影日:2020.10.26)
能見堂跡
能見堂跡・金沢八景駅~釜利谷方面を望む(撮影日:2022.03.03)
能見堂跡・金沢八景駅~釜利谷方面を望む

周辺の見どころ
能見堂緑地

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徳川家康公供養が執り行われている紅葉山東照宮ゆかりの 禅林寺

禅林寺ぜんりんじは、室町時代の武将で第4代鎌倉公方の足利持氏あしかが もちうじが開いた寺に、その子である第5代鎌倉公方・初代古河公方の足利成氏あしかが しげうじが父の供養のため、下総国の東昌寺2世・能山聚藝のうざん しゅげい能山聚芸)禅師を招いて開いたと伝わる寺です。

中興開基は、戦国時代にこの地を治めていた後北条氏の家臣・伊丹三河守永親で、一族の先祖供養のために禅林寺を再興したと伝えられています。禅林寺には、現在も、伊丹氏一族の墓があります。

禅林寺があるあたりは、かつては「坂本」(武蔵国久良岐郡坂本村、後に赤井村宿村と合併して釜利谷村)という地名でした。現在も、最寄りのバス停名に「坂本」の名前が見られます。

江戸城内の紅葉山東照宮の別当を兼ねていた浅草寺知楽院別当・忠尊が、禅林寺を中興開基した伊丹三河守永親の孫であったという縁から、江戸時代前期の寛永年間に、坂本村が紅葉山東照宮領となりました。また、このような関係から、禅林寺東照大権現徳川家康)の御神影おみえ(神様の姿を写した御札)が下賜されることになりました。

現在も禅林寺では、毎年、徳川家康の命日にあたる4月17日に、徳川家康公供養の行事として御神影が一般公開されます。

●住所
横浜市金沢区釜利谷東6-40-32

●駐車場
なし

●公共交通機関
京急線「金沢文庫駅(西口)」より京急バス「八景台住宅」行き、「高舟台循環[文10]」行きで、『坂本』下車徒歩約6分
または「高舟台循環[文20]」行きで、『小泉』下車徒歩約8分

禅林寺(撮影日:2023.06.21)
禅林寺
禅林寺・本堂(撮影日:2023.06.21)
禅林寺・本堂

周辺の見どころ
畠山重保の墓

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