横須賀・田戸台の聖徳寺は、南北朝時代の1353年(文和2年)に、「赤門」や「田戸庄」の名で知られる永嶋家(永島家)の二代目・永嶋庄六郎正徳によって創建された寺院です。
寺号ははじめ、永嶋正徳の法名「正徳寺信誉浄念」から「正徳寺」と名付けられましたが、江戸時代に現在の「聖徳寺」に改められています。
山号の「公郷山」は、聖徳寺が旧公郷村に所在していたことの名残りです。現在の横須賀市「公郷町」は衣笠行政センター方面の衣笠エリアの地名ですが、明治時代中期まで存在した「公郷村」は、現在聖徳寺のある田戸台や東京湾に浮かぶ猿島までその村域に含まれていました。
開基の永嶋正徳の一家は、その公郷村の名家で、江戸時代には代々名主(現代の村長に相当)を世襲していました。
| 山号 | 公郷山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 寺格 | ― |
| 本尊 | 阿弥陀如来立像 |
| 創建 | 1353年(文和2年) |
| 開山 | 静蓮社寂誉 または、浄誉生阿 |
| 開基 | 永嶋庄六郎正徳 |
永嶋家(永島家)は三浦一族の子孫とされています。聖徳寺に安置されている千手観音像は、永嶋家の祖にあたる三浦大田和平六左衛門尉義勝の守り本尊と伝えられています。
一方、聖徳寺開基の正徳は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・楠木正成の四男とされています。
三浦義勝の子・義政から永嶋(永島)姓を名乗るようになりましたが、その義政は若くして亡くなったため、正徳が婿に迎えられ、永嶋家を継ぎました。
INDEX
衰退と復興をくり返した聖徳寺の歴史

戦災や火災などにより、何度か衰退と復興をくり返しているため、聖徳寺の縁起については諸説あります。
創建年や開基については、上記のような内容が定説のようです。
しかし、開山については、静蓮社寂誉(「新編相模国風土記稿」(江戸後期)、「浄土宗神奈川教区寺院誌」(1962年))という僧とするものと、浄誉生阿(「浄土宗大観 : 開宗七百五十年紀念」(1923年)、「全国寺院名鑑」(1969年))という僧とするものがあります。
境内地についても、曹源寺(寺名ではなく、旧公郷村内に地名として存在した「宗源寺」。「曹源寺」という寺は徳川家康の代官頭・長谷川長綱がかつて宗元寺のあった地に再興した寺院)の地に創建されたとする説などがありますが、少なくとも江戸時代中期には現在地(またはその周辺)に所在していたようです。
「浄土宗神奈川教区寺院誌」によると、1546年(天文15年)に発生した山崩れで堂宇が倒壊し、その後、五間ニ六間の本堂と十五間四面の庫裡が建てられ、1923年(大正12年)の関東大震災で半壊したものを再建したのが現在の堂宇だとしています。
また、江戸後期の「大仏高徳院略記」(「高徳院」は「鎌倉大仏」として知られる仏像を安置する寺院)によると、1754年(宝暦4年)に高徳院から養国という僧が聖徳寺に隠居し、再建を行ったことが記されています。

長谷寺の板碑を模したとみられる「石造宝篋印塔陽刻板碑」

聖徳寺の本堂の正面には、横須賀市指定重要文化財の「石造宝篋印塔陽刻板碑」が建っています。江戸時代初期の1610年(慶長15年)に、聖徳寺を中興した法蓮社錠誉の供養のために建立されたもので、相模型板碑と呼ばれる安山岩製の石塔婆です。
文化財の名前にもなっているとおり、この聖徳寺の板碑には、正面に宝篋印塔が陽刻されています。旧相模国の地域には宝篋印塔を陽刻した板碑は鎌倉の長谷寺のものと2例しか確認されておらず、とても貴重なものです。
長谷寺の板碑は鎌倉時代後期のもので、江戸時代初期に建立された聖徳寺のものとは時代が離れていますが、宝篋印塔の形が酷似しているため、聖徳寺の板碑はこれを模して造られたと考えられています。
練習艦「干珠」訓練中の事故を慰霊する「庚寅遭難之碑」

境内前の聖徳寺坂から海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎(旧横須賀鎮守府司令長官官舎)方面に続く道沿いの入口には、「庚寅遭難之碑」が建っています。
1890年(明治23年)、横須賀鎮守府の練習艦「干珠」が千葉沖で訓練中に、乗組員の乗る短艇が暴風雨に遭い、12人中10人が遭難しました。「庚寅遭難之碑」はこれを慰霊するために建立されたものです。「庚寅遭難之碑」という名前は、事故のあった明治23年が庚寅の年にあたるためです。

聖徳寺周辺の見どころ









