天照山と呼ばれている浄土宗大本山・光明寺の裏山には、光明寺を開いた鎌倉幕府第4代執権・北条経時の墓と、開山(初代住職)である浄土宗三祖・然阿良忠上人(記主禅師)の墓、そして、光明寺歴代住職が眠る、墓所があります。
この光明寺御廟所へは、光明寺の境内の中を経由しても、境内の外からも、どちらからも行くことができます。
「光明寺裏山の展望」として「かながわの景勝50選」に選ばれている光明寺裏展望台の、ちょうど裏手に参道の入口があり、しばらく歩いた先の奥まった場所に、生い茂る木々に囲まれて、整然と墓石が並んでいます。
INDEX
鎌倉幕府第4代執権・北条経時の墓
はじめは蓮華寺に葬られた北条経時
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、北条経時は、1246年(寛元4年)閏4月に死没し、その翌日には佐々目の山麓に葬られたことが記録されています。
「佐々目」とは、現在、県道311号鎌倉葉山線が走る北側エリアの、由比ガ浜1丁目と長谷1丁目の間に位置する、鎌倉市笹目町周辺と見られます。1240年(仁治元年)に創建された、光明寺の前身である蓮華寺のあった佐助ヶ谷はちょうど笹目町の北側に隣接するエリアのため、北条経時が葬られたのも蓮華寺の寺域だったことがうかがい知れます。
その後、蓮華寺は材木座に移り、寺名も光明寺と改められますが、このときに北条経時の墓も改葬されたのでしょう。
現在、光明寺の裏山にある北条経時の墓は、2mを超す立派な宝篋印塔で、経時の戒名「蓮華寺殿安楽」が刻まれています。このことからも、少なくとも経時が亡くなった時点の寺名は、まだ「蓮華寺」だったことが分かります。
なお、北条経時のものと伝わる墓(供養塔)は、横須賀市長井の不断寺にもあります。
執権・北条経時の評価
鎌倉幕府第4代執権・北条経時は、第3代執権・北条泰時の嫡男・北条時氏の長男です。父・時氏が若くして亡くなったため、経時は若いころから泰時の後継者として育てられました。
北条泰時の死去にともない、北条経時は19歳の若さで執権を継ぐことになります。しかし、父以上に経時の人生も長くはなく、23歳でこの世を去ります。
また、北条経時の執権在職期間は4年に満たないもので、第2代・義時の19年近く、第3代・泰時の18年、第4代・経時の弟で次の代の第5代・時頼の11年近くと比較しても、短いものでした。
このように、若くして執権職を継いだことと、在職期間が短かったこともあり、後世の執権・北条経時の評価はあまり高いとは言えません。
しかし、先代の執権・北条泰時が築いた執権北条氏の幕府内での立場を、泰時時代と同等かそれ以上のものにすることに成功しています。
北条経時の執権時代の大きな出来事と言えば、三代で途絶えた源氏将軍の跡を継いで就任していた将軍の交代と、北条得宗家(北条一族の本家)と将軍家との縁戚関係の樹立が挙げられます。
1219年(建保7年)に鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が暗殺された後、第4代将軍には京の摂家(公家)より藤原頼経(九条頼経)が迎えられていました。このとき、頼経はまだ2歳でしたが、北条経時が執権に就いた1242年(仁治3年)には25歳になっていました。
経験豊富な60歳の執権・北条泰時と、ほとんど実績のない二十歳にも満たない執権・北条経時とでは、成長した25歳の将軍・藤原頼経と対峙したときに、御家人にしても北条得宗家以外の北条一門にしても、幕府内の勢力図の見方が相当変わったことでしょう。
実際にどのような力が働いたかは定かではありませんが、1244年(寛元2年)には藤原頼経は将軍職を6歳の嫡男・藤原頼嗣に譲り、自らは第一線を退いています。さらにこの翌年には、北条経時は自らの妹を第5代将軍・頼嗣に嫁がせ、将軍家の外戚という立場を得ています。
北条経時は比較的温和にことを進めることができましたが、経時の弟で第5代・時頼の時代には、宮騒動(北条一門・名越流北条氏の北条光時らと前将軍・藤原頼経によるクーデター未遂)、宝治合戦(有力御家人の三浦泰村一族とその縁者が北条氏に滅ぼされた鎌倉幕府の内乱)と、わりと強引な権力抗争が発生することになります。
浄土宗三祖・記主良忠上人の墓
伏見天皇より「記主禅師」の諡号が贈られた良忠上人
良忠上人は、1293年(永仁元年)に伏見天皇より「記主禅師」の諡号が贈られているため「記主禅師」あるいは「記主良忠」の名で呼ばれることもあります。
光明寺の本堂(大殿)と開山堂の裏に広がる池泉鑑賞式の庭園「記主庭園」の名前は、もちろん、光明寺開山の「記主良忠」に由来します。
記主良忠上人の墓は、この記主庭園のさらに背後の山の中腹にある光明寺御廟所に建っています。
良忠上人の墓は、この光明寺御廟所の中心に位置していて、良忠上人の墓を囲むように、光明寺の歴代住職の墓や北条経時の墓が整然と並んでいます。
良忠上人ゆかりの悟真寺
良忠上人は、それまで京から九州までの西国が中心だった浄土宗の教えを関東に広め、浄土宗をいわゆる鎌倉仏教の一つとして全国規模の宗派にした功績も知られています。
浄土宗は、平安時代末期の1175年(承安5年)に法然上人が立教開宗した仏教の宗派の一つです。浄土宗二祖は弁長上人で、その弁長のもとで修行を重ねた良忠上人が浄土宗三祖に指名されています。
良忠もはじめのうちは西国で修行を積みますが、浄土宗の普及のためには、幕府が開かれ、政治の中心となった鎌倉での布教が欠かせないと考えたのでしょう、関東へ向かいます。はじめは下総国を拠点に布教活動をしていましたが、1240年(仁治元年)、鎌倉の悟真寺に拠点を移したといいます。
江戸時代後期に成立した地誌「新編相模国風土記稿」には、蓮華寺/光明寺創建前の良忠は「住吉谷悟真寺」に住んでいたと書かれています。住吉谷というのは、現在、正覚寺や住吉神社がある、光明寺の南に隣接した逗子市小坪の谷戸だとみられます。正覚寺は正式には「住吉山悟眞院正覚寺」という名前で、前身の寺院は「悟真寺」という寺名だったと言い、良忠が荼毘にふされた場所とも伝えられています。
これらのことから、良忠ははじめ住吉谷の悟真寺(現在の正覚寺)を拠点にし、その後、北条経時に招かれて佐助ヶ谷に蓮華寺を開き、北条経時の死没以降に、なんらかの理由でまた、良忠ゆかりの住吉谷のすぐ隣りの材木座に移ってきたということが考えられます。
なお、良忠の鎌倉入りは1260年(文応元年)という説もあり、「新編相模国風土記稿」に書かれている、光明寺の前身である蓮華寺の創建は1240年(仁治元年)、その寺院が現在の材木座に移ってきたのが1243年(寛元元年)という記録とは時系列が合わなくなります。
こちらの説が正しいと仮定すると、良忠は1260年(文応元年)以前にも鎌倉で活動していたのか、良忠の鎌倉入りか光明寺創建の年の記録に誤りがあるか、どちらかということになるでしょう。
光明寺に限った話ではありませんが、高僧ゆかりの寺院の由緒については諸説あるのが常のようで、正確さを突き詰めることにあまり意味はないと言えます。