法蔵院は、参道から津久井浜海岸を望む、海チカの寺院です。津久井幼稚園が併設されていて、平日の境内は賑やかです。
現在は参道の少し先に国道134号が走っていますが、昭和中期までは法蔵院の山門(総門)の前を横切る道がこのあたりのメインストリートでした。
寺の由緒によると、戦国時代の1556年~58年ごろ(弘治・永禄のころ)、対岸の房総半島を治めていた里見氏が、勢力拡大のため頻繁に三浦半島に上陸するようになり、法蔵院も兵火に遭って堂宇も失われてしまったと言います。そのころ、里見氏は、三浦半島を治めていた後北条氏(小田原北条氏)と南関東の覇権をかけてし烈な争いをしていました。
その際、里見氏は法蔵院の仏像や梵鐘などを持ち去りましたが、途中海が荒れたため、仏像を海中に投げ捨てて逃げ帰ったと言います。
後に、この仏像は、津久井浜海岸から南に2~3km下った先にある菊名海岸に流れ着き、無事に法蔵院に帰ることができたと伝えられています。このような縁があり、今でも菊名には法蔵院の檀家がいて、菊名の永楽寺はその檀家の便宜を図るために建立された寺だと言います。
山号 | 五劫山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀仏 |
創建 | 1175年(承安5年) |
開山 | 明円 |
開基 | 不詳 |
法蔵院のお十夜法要は、武山不動の縁日、宮田の神事相撲と並び、「三浦三市」の一つに数えられています。
「十夜法要」とは、文字通り、十日十夜に渡って念仏をとなえる法要のことで、法蔵院の本山である鎌倉・材木座の光明寺が発祥です。
現在はどこも短縮されていますが、法蔵院のお十夜法要は、横須賀・長井の不断寺と三浦・三崎の光念寺をあわせた3寺で、光明寺の10日間の法要をそれぞれ2日間ずつ分けてもらったものだと言います。
法蔵院のお十夜法要は毎年11月8日・9日の2日間執り行われています。三浦半島の浄土宗寺院の十夜法要は、各寺院ごとに日程が固定されていて、日程が重ならないように執り行われています。
INDEX
光明寺から移築された法蔵院のかつての山門
お十夜法要を分けてもらえるほど光明寺とつながりの深い法蔵院は、江戸時代には光明寺の山門も譲り受けています(現存せず)。
現在の光明寺の山門は江戸時代後期の1847年(弘化4年)に建立されたもので、数ある鎌倉の寺院のなかでも最大の山門です。鶴岡八幡宮から移築されたものと伝えられています。
この光明寺の山門が建築される際に、法蔵院が光明寺の旧山門を譲り受けました。この山門は間口7間(約12.7m)、奥行2間(約3.6m)の楼門だったと言い、浄土宗の関東大本山に列せられる光明寺の山門ですから、さぞかし格式高いものだったことでしょう。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災では法蔵院も大きな被害を受け、総門と庫裏を残し、山門や本堂などは全壊しました。その後、山門の古材を利用して仮本堂を建立したと言います。
現在の本堂は、1972年(昭和47年)に再建されたものです。
時化の夜に海を渡る龍の伝説
その後、法蔵院では山門が再建されることはなく、現在は1988年(昭和63年)に総門として建立された門が山門と呼ばれるようになっています。
この総門(現在の山門)に掲げられた彫刻は江戸時代初期に活躍した彫刻師・左甚五郎作とされていて、対岸の房総半島まで海上を泳いで渡る龍の伝説があります。
法蔵院の総門は何度か再建されていますが、龍の彫刻は江戸時代前期の建立当初のものだと言います。総門の彫刻には、表に龍が、裏に梅と二羽の雉が彫られています。この龍は時化の夜に海上を泳いで房州(千葉県南部の旧安房国)に渡ると言われています。龍が海上で暴れるとさらに海が荒れ狂い、漁師が漁に出られないので、龍が暴れないように、龍の左眼には「目打ち」として五寸釘が打たれていると伝えられています。「目打ち」をしてからは、龍が暴れることもなくなり、海も穏やかになったと言います。