走水水源地は、横須賀における最初の近代的な水道である横須賀軍港水道・走水系統の、水源地側の水道施設です。戦後は、旧日本海軍から横須賀市に移管されて、現在は横須賀市水道局によって管理されています。明治時代に建造された施設ですが、さまざまな改良を加えながら、今も現役の水道施設として使われています。
横須賀軍港水道・走水系統は、江戸幕府の勘定奉行だった小栗上野介忠順の進言により、幕末の1865年(慶応元年)からフランス人技師・ヴェルニーにより建設・運用を開始した横須賀造船所(当初は横須賀製鉄所で明治維新後に改称)での水需要の増加にあわせて改良が加えられていきました。
2000年に国の登録有形文化財として登録された、煉瓦造貯水池と鉄筋コンクリート造浄水池(登録名はそれぞれ「横須賀市水道局走水水源地煉瓦造貯水池」と「横須賀市水道局鉄筋コンクリート造浄水池」)は、その過程で、明治時代中期から後期にかけて、海軍の技師による設計で建造されたものです。
この煉瓦造貯水池(1902年(明治35年)竣工)と鉄筋コンクリート造浄水池(1908年(明治41年)竣工)は、竣工(完成)した年が6年しか違いませんが、建築の構造が大きく異なります。これらの建造物は、純粋な近代化遺産として価値があることはもちろんですが、明治時代、いかに日本が急速に近代化を推し進めようとしていたのかを理解するうえでも、貴重な存在と言えます。
なお、このうち、鉄筋コンクリート造浄水池は、現存する鉄筋コンクリート造の建造物として国内最古級のものとみられています。
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INDEX
煉瓦造貯水池/鉄筋コンクリート造浄水池 建造の背景
幕末に横須賀製鉄所として建設・運用が開始された当初の横須賀造船所では、建物や土木の建造も、施設の運用も、いわゆる「お雇い外国人」である、ヴェルニーらフランス人技師が中心となって行われました。
それは、1876年(明治9年)に竣工した横須賀軍港水道・走水系統も同様で、当初の施設は、ヴェルニーの指示のもと、造船所の建築長・ジュウエットが指揮監督して築造されました。
明治も中ごろになると、お雇い外国人に学んだり、海外で自ら見識を深めた日本人が、官公庁や不動産開発会社、そして軍関連の組織などに設けられた建築や土木部門で、近代的な技術をもとに、主導的な立場で活躍するようになっていきます。
横須賀軍港では、横須賀鎮守府に設置されていた建築部(後の横須賀鎮守府経理部建築科、横須賀海軍経理部建築科)が、日清戦争(1894年~1895年(明治27年~28年))前の軍備拡張により、造船所や関連施設の需要の高まりを受けて、その組織が強化されていくことになりました。
日清戦争後の日本では、明治時代を通して、さらなる軍備拡張が行われていくことになります。
走水水源地に現存する煉瓦造貯水池と鉄筋コンクリート造浄水池は、こうした横須賀軍港の増強を背景とした、水需要のひっ迫にあわせた水源地拡張工事の一環として建造されていった施設です。
しかし、走水水源地では、大規模な水源地で一般的な河川やダム湖の地表水(表流水)によるものではなく、湧水や伏流水(地下水)を水源としています。そのため、絶対的な水量を増やすことは難しく、明治後期からは神奈川県西部の相模川支流・中津川に水源を求めていくことになります。
旧横須賀軍港水道走水水源地煉瓦造貯水池
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走水水源地煉瓦造貯水池は、日清戦争後の軍備拡張を受けた、第1期拡張工事(1900年~1902年(明治33年~35年))の一環として建造され、1902年(明治35年)に竣工しました。この工事では、径8インチ鋳鉄管を径10インチのものに布設替えするとともに、導水の方式を自然流下からポンプ圧送に変え、送水能力が増強されました。
煉瓦造貯水池は、現在の国道16号の山側にあたる、走水水源地の山すそに建てられています。走水水源地のように、湧水や伏流水(地下水)を水源とする場合、貯水池の近くに集水渠を設けて水を集め、その水を貯水池に蓄えます。この煉瓦造貯水池が山すそに建てられたのも、水を効率的に集めやすい場所だったからであると考えられます。
煉瓦造貯水池の地上に見える上屋部分はイギリス積みの煉瓦造平屋建ての矩形(長方形)で、その下部の貯水池部分はコンクリート造の矩形です。
レンガの積み方の方式からも、この頃にはもう、ヴェルニーをはじめとしたフランス人技師の影響はなくなっていたことが分かります。
煉瓦造貯水池は、国道16号沿いの北側が正面にあたります。中央に正面入口を配し、その他に4ヶ所の入口と円形の空気抜き窓があります。後年、これらの正面の開口部はすべて塞がれて、煉瓦タイルが貼られています(この部分はイギリス積みの模様になっていません)。※この下の写真参照
東西面にも入口が設けられていて、現在は木製からアルミ製のドアに改造されています。
南側の背面には、屋上に上がるための梯子が設けられていました。
屋上はヴォールト屋根(アーチ状の屋根のことで、貯水池ではヴォールト屋根のトンネル状の構造物を複数個並べて造られることが多いです)で、内部と上部にモルタルが塗られ、盛土がされています。国道16号からも見える、屋上の2ヶ所のピラミッド型構造物は、空気抜きです。
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走水水源地煉瓦造貯水池の設計は横須賀鎮守府経理部建築科によるもので、上屋が堀池好之助技師と熊沢栄太郎技手で、貯水池が建築科長・井川喜久蔵技師と山田誠蔵技手によるものとされています。上屋付きの土木建築らしく、意匠も重要な建築技術者と水道施設としての構造の理解度が重要な土木技術者と、役割分担のもと設計されたことが分かります。
走水水源地煉瓦造貯水池は、外側から見える美しい煉瓦造の建築としても価値があるものですが、長期間使用された近代的な土木遺産として見た場合、土木技術者の功績も忘れてはなりません。
走水水源地煉瓦造貯水池の完成後、井川喜久蔵技師らのチームは、東北初の近代水道施設となる旧日本海軍の大湊水源地水道施設(現在の青森県むつ市宇田町、桜木町)のプロジェクトに移っています。1908年(明治41年)に、建築科長が井川喜久蔵から、後に横須賀鎮守府司令長官官舎(田戸台分庁舎)を設計する桜井小太郎に引き継がれたため、大湊要港部水源地堰堤など主要施設の設計者は桜井小太郎とされています。実際は、建設時期(1902年~1910年(明治35年~明治43年)を考えれば、井川喜久蔵技師らが率いた走水水源地第1期拡張工事(1900年~1902年(明治33年~35年))のノウハウがいかされた可能性が高いと言えるでしょう。
いずれにしましても、横須賀鎮守府経理部建築科には、水道などのインフラ施設に特化したチームが存在し、横須賀鎮守府管轄下の地域のインフラ建設計画に携わるとともに、技術の共有や継承がなされていたものとみられます。
旧横須賀軍港水道走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池

走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池は、日露戦争(1904年~1905年(明治37年~38年))後の軍備拡張を受けた、第2期拡張工事(1906年~1908年(明治39年~41年))の一環として建造され、1908年(明治41年)に竣工しました。
鉄筋コンクリート造浄水池は、第1期拡張工事で建造された煉瓦造貯水池の海側(北側)に建てられました。
この浄水池は、その名称にもなっているとおり、鉄筋コンクリート造平屋建てで、平面は正方形です。この当時、鉄筋コンクリート造は最先端の技術で、走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池は現存する鉄筋コンクリート造の建造物として国内最古級のものとみられています(土木構造物としては1903年(明治36年)竣工の琵琶湖疏水・日ノ岡第11号橋が現存しています)。
コンクリート自体は、日本でも明治初期ごろから使われはじめ、土木構造物や建築の基礎などから使われはじめていましたが、より強度が高く耐久性に優れた鉄筋コンクリート(引っ張りに弱いコンクリートを補強するため鉄筋を組み合わせた工法)が本格的に普及するのは、1923年(大正12年)に発生した関東大震災以後のことです。
明治~大正前期には、西洋の技術を用いた近代的な建築が多く建てられるようになっていました。しかし、それらの多くは煉瓦造や、日本では横須賀製鉄所から広まったとされる木骨煉瓦造でした。それらの多くは関東大震災で壊滅的な被害を受けたのに対して、耐震構造によって差異はあったものの、鉄筋コンクリート造の建築は無傷または軽微な被害に留まったものも多く、震災による火災で焼失した木造建築の見直しを含め、耐震・耐火性能の高い鉄筋コンクリート造が一気に注目を集めるようになりました。
鉄筋コンクリート造浄水池の南北面には、10ヶ所の円形空気抜き窓がありましたが、現在はいずれの開口部も塞がれています。
北面には、入口と、屋上へ上がるための階段が設けられています。
屋上は煉瓦造貯水池と同様、ヴォールト屋根で、東西に5棟並べられています。

走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池の設計は横須賀海軍経理部建築科によるもので、建築科長・井川喜久蔵技師、伊藤誠吉技師、浅井富技手と考えられています。全面鉄筋コンクリート造となったことで、第1期拡張工事の煉瓦造貯水池のように上屋とその下部の貯水池をそれぞれ分けて設計するのではなく、一体的に設計するようになったとみられています。
設計者の伊藤誠吉技師は、京都帝国大学理工科大学土木工学科在学中に鉄筋コンクリート造をいち早く取り入れた琵琶湖疏水の設計監督・田辺朔郎に学び、舞鶴鎮守府所属時代には横須賀造船所内にあった学校「黌舎」出身で横須賀造船所2号ドックや横浜船渠第2号船渠(現在のドックヤードガーデン)などを設計した恒川柳作の元で働いていたという経歴を持っています。
横須賀海軍経理部建築科所属になったのは、井川喜久蔵技師らが大湊水源地水道施設のプロジェクトに移っていたころの1905年(明治38年)で、同プロジェクトにも主任技師として名を連ねています。
走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池は、井川喜久蔵技師ら第1期拡張工事に携わった走水水源地をよく知る技術者と、伊藤誠吉技師のような新たな知見を持つ技術者が融合したことで、国内でも早い時期に鉄筋コンクリート造の建造を実現することができたのでしょう。それほど規模が大きくない走水水源地鉄筋コンクリート造浄水池は、鉄筋コンクリート造の実践の場としても、適していたのかもしれません。
インターネットやAIはおろか、電話や通信もまだ発達していなかった時代には、技術の進歩は、リアルな人的交流と研究や実験の積み重ねこそがすべてで、横須賀鎮守府/横須賀海軍経理部建築科にはそれを実践できる技術者が集められていたということになります。
なお、走水水源地第2期拡張工事(1906年~1908年(明治39年~41年))と大湊水源地水道施設(1902年~1910年(明治35年~明治43年)は時期が被っているため、井川喜久蔵や伊藤誠吉といった横須賀海軍経理部建築科のエース級の技師は、横須賀鎮守府の管内を北から南まで掛け持ちで働いていたことになります。

日本遺産「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財
旧横須賀軍港水道走水水源地煉瓦造貯水池/鉄筋コンクリート造浄水池は、日本遺産「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財になっています。
横須賀市にある、その他の構成文化財をいくつかご紹介します。












