横須賀市の久里浜と野比の境にある千駄ヶ崎から、三浦市の金田海岸まで続く金田湾最南端の岬を、雨崎と言います。この雨崎の丘の山頂に祀られているのが、雨崎神社(浅間神社)です。「雨崎様」あるいは「浅間様」と呼ばれる大蛇が祀られています。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」や1879年(明治12年)から1920年(大正9年)にかけて神奈川県がまとめた「明治12年 神社明細帳(三浦郡)」といった、近世から近代にかけての史料には、現在の雨崎神社に該当しそうな神社が見当たりません。そのため、明治時代以降に雨崎周辺の村人たちによって祀られたか、あるいは、それ以前から神社という形式にとらわれないかたちで信仰されてきたものなのかもしれません。
測量年が1903年(明治36年)の5万分の1地形図には雨崎に神社の地図記号が見えることから、少なくともこの頃には、なんらかのかたちで祀られていたことは間違いありません。
(雨崎神社は、現在も、神社庁に登録されている神社ではありません)
主祭神 | 雨崎様(浅間様) |
旧社格等 | ― |
創建 | ― |
「雨崎様」あるいは「浅間様」と呼ばれた大蛇の伝説
2007年に発行された田辺悟著「三浦こども風土記」(三浦市教育委員会編集・発行)によると、雨崎は雨乞いの神聖なる地で、そこには四斗樽(高さ60cmほどの、4斗=72リットルの酒が入る樽)ほどの太さがある大蛇が住んでいたと言います。凶作や日照りが続くと雨崎にある井戸に出かけ、井戸の中をかきまわすと、3日でも4日でも、必要なだけ雨が降ってくれたと伝えられています。
雨崎に住む「雨崎様」や「浅間様」と呼ばれた大蛇は、対岸の房総半島との間を泳いで行き来しているのですが、どれくらいの大きさの蛇なのかは分からないと言います。大蛇のいるときに雨崎に近づくと、熱病におかされて、口もきけないほど寒気がきて、やがて死んでしまうと伝えられていて、誰もその姿を見たものはいないからです。ただ、麦の穂が出るころになると、雨崎周辺の田畑の作物や山の雑草が四斗樽くらいの幅になぎ倒されていることが多かったため、太さだけは想像がついたのだと言います。
後に、「雨崎様・浅間様」は、村人たちによって雨崎の山上で祀られるようになり、毎年4月3日には祭礼が行われるようになったと言います。
中世や近世・近代にかけて(明治維新の神仏分離以前は神仏習合という形を含め)、全国の神社の多くは、日本書紀などの日本神話に登場する神々や神話時代以降の歴史上の人物を信仰の対象とするようになりました。
しかし、原始的な神社は、この雨崎神社の伝承のように、人々の暮らしと隣り合わせにあるような「神」(雨崎神社の場合は雨乞いの神)を祀るようなものだったはずです。
神話の神々に置き換えられたことで、そこに神様が祀られた意味がオブラートに包まれたようにぼんやりとしたものになっていった神社が多いなか、雨崎神社は神道本来の姿を留める貴重な神社と言えるのかもしれません。
なお、津久井の法蔵院や東京湾唯一の無人島である猿島にも、房総半島と行き来する龍や大蛇の伝説が残っています。龍や蛇は、東京湾(江戸湾)の時化に対する、神聖な生き物とされる動物を用いた比喩の定番でもあったのでしょう。