横須賀・深田台に鎮座する深田神明社は、旧深田村の鎮守です。
現在は京急線の横須賀中央駅横から平坂を登り切った先に広がる上町商店街の、さらに山の上にありますが、かつては今の横須賀共済病院裏手にあたる海岸近くの山すそ(現在の米が浜通1丁目)に鎮座していました。しかし、1883年(明治16年)、この背後の山に旧日本陸軍の砲台建設の計画が持ち上がると、深田神明社も移転を余儀なくされました。
そこで、深田神明社は、小松善兵衛氏により畑・二畝八歩(およそ225平方メートル)の寄付を受けた高台に遷座し、さらに1907年(明治40年)と1967年(昭和42年)に境内を拡張し、現在に至ります。
深田神明社の参道入口には鳥居がなく、社号標が建っているだけです。神社のシンボルとも言える鳥居がない神社は、三浦半島に限らず全国的にもめずらしい存在です。
この参道入口も、上町商店街のメインストリートではなく1本裏通りに面しているため、普段はひっそりとしています。わざわざ裏通り沿いに設けたというわけではありません。この通りはかつての浦賀道(東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)で、移転当時はメインストリートに面した神社でした。
主祭神 | 大日孁貴命 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1691年(元禄4年)以前 ※遷座前の時代を含む |
祭礼等 | 1月1日 新年祭 2月節分 節分祭 4月第2日曜日 春祭 11月 例大祭(秋祭り) ※実際の日にちは異なる場合があります |
第二次世界大戦後、米が浜(米が浜通)の旧鎮座地は深田神明社に返還されました。深田神明社はこの旧鎮座地から離れた山の上にあり、ふもとの米が浜地区の氏子は参拝に不便だったため、1979年(昭和54年)、旧鎮座地には別宮として米が浜神明社が再建されました。
深田神明社から米が浜神明社までは、迷路のように入り組んだ路地と、横須賀共済病院方面に下る裏坂または龍本寺境内からお穴さまを経由して、道に迷わなければ、徒歩10分ほどです。

市街地に残された鎮守の杜

深田神明社の参道は、急斜面に長い石段が続いています。中段まで昇ったころには、参道入口付近の市街地の雰囲気から一変し、鎮守の杜に包み込まれています。中段の踊り場には、古い狛犬や手水鉢などが配されていて、都会の中にあってもしっかり神域が保たれています。

住宅に囲まれた深田神明社の社殿

長い石段を昇りきると、正面に鉄筋コンクリート造の深田神明社の社殿が建っています。山上に鎮座する神社と言えば、そのまわりは自然が広がっているイメージがありますが、ここは横須賀の市街地、山の斜面から山上までぎっしりと住宅が建ち並んでいます。
とは言え、1960年代までは深田神明社の社殿周辺にはまだ住宅が少なく、今とはまた違った雰囲気だったことでしょう。
社殿のまわりは神社の木々や住宅で眺望はありませんが、すぐ近くの開けた場所からは、整然とした住宅地ではない、山の斜面にランダムに住宅が建ち並ぶ、横須賀らしいまちなみが見られます。

深田台ではなく旧深田村を基本とする氏子区域

深田神明社が鎮座する旧深田村は、現在の横須賀市深田台と、同上町、米が浜通、若松町それぞれの一部にあたる村でした。深田村は、1889年(明治22年)に周辺の公郷村・中里村・佐野村・不入斗村と合併して、豊島村になりました。その豊島村も、町制施行で豊島町になった後、1906年(明治39年)に横須賀町(後の横須賀市)へ編入されました。
この間、旧深田村の住所は、「豊島村(町)深田」→「横須賀町(市)深田(町)」と変わっていきましたが、戦後の町名地番整理で区域が大きく見直され、旧深田村の低地部を除く高台のほとんどが横須賀市深田台となりました。
現在の深田神明社の氏子区域は、この町名地番整理後の「深田台」ではなく、旧「深田村」の村域が基本になっていて、町内会としては上町深田町内会・深田大門町内会・台深田町内会が該当します。

深田神明社周辺の見どころ





