京急線の横須賀中央駅近くに鎮座する諏訪神社は、三浦半島イチの繁華街に隣接した、横須賀・下町の鎮守です。若松町や大滝町といった横須賀中央エリアで商売する人たちを中心に、親しみを込めて「お諏訪様」と呼ばれ、崇敬されてきました。
諏訪神社では、初夏と晩秋に、とくに大きな賑わいをみせるお祭りがあります。
毎年、5月25日に近い土曜日・日曜日に執り行われるのが、諏訪神社の例祭です。駅前から続く横須賀中央大通りを通行止めにして練り歩く、緑が丘の諏訪大神社例祭と合同で行われる神輿渡御は、横須賀に夏の訪れを告げる恒例行事です。
年によって2回か3回、11月の酉の日にあるのが、境内社である大鷲神社の祭礼「酉の市」です。開運や商売繁盛のご利益があるとされる熊手やダルマを買い求める人たちで一日中賑わいます。諏訪神社境内や駅周辺が所狭しと出店で賑わう「酉の市」は、横須賀の晩秋の風物詩になっています。
主祭神 | 建御名方命 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1573年(天正元年) |
祭礼 | 1月1日 歳旦祭 2月節分 節分祭 3月上旬 祈年祭 5月25日に近い土曜・日曜 例祭 11月下旬 新嘗祭 11月酉の日 大鷲祭「酉の市」 |
2024年(令和6年)の諏訪神社「酉の市」は、一の酉が11月5日(火曜日)、二の酉が17日(日曜日)、三の酉が29日(金曜日)の3回です。開運を掻き込むという熊手守が頒布される他、境内には露店が立ち並び、賑わいます。
酉の日に酉の市が立つのは諏訪神社が三浦半島で唯一ですが、繁華街を中心に、日にちを変えていくつか開催されます。(下記リンク参照)

INDEX
室町時代末期に諏訪明神を勧請して創建

諏訪神社は、室町時代末期の1573年(天正元年)に、信濃国諏訪明神(現在の諏訪大社)の分霊を勧請して創建されたと伝えられています。
現在の諏訪神社の社殿は、1923年(大正12年)に造営されたものです。
かつての諏訪神社は、横須賀村の中横須賀字瀧に鎮座していました。当時は、豊川稲荷のある山が海に突き出ていて、その岬にあったと言います。幕末までは、現在の横須賀中央大通りより海側はほとんど海の下にあり、諏訪神社も海を望む場所に鎮座していました。
諏訪神社が鎮座する若松町をはじめ、現在のいわゆる横須賀中央エリアを構成する大滝町、米が浜通、日の出町、小川町といった町の大部分は、幕末から戦前までにかけて造成された埋立地です。
それが、明治に入り、横須賀軍港の設置で増えた人口に対応するため、付近の山を崩して埋め立てることになり、諏訪神社も現在の若松町に遷座されました。
寒村から三浦半島イチの繁華街への変貌を見守ってきたお諏訪様

横須賀に軍港が置かれるまでの横須賀村(現在の横須賀中央エリアから汐入方面一帯)は小さな漁村に過ぎず、諏訪神社も漁業の守護神として崇敬をあつめていました。
そんな寒村だった横須賀の環境が一変したのは、幕末に、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠。※いずれも、いわゆる「造船所」)が建設されてからです。明治に入ってからは旧日本海軍の横須賀鎮守府が置かれ、横須賀は軍港都市として急激に発展していきました。
現在の場所に遷座された当時の諏訪神社周辺は、横須賀鎮守府庁舎(現在の米海軍横須賀基地司令部庁舎)などが置かれた横須賀軍港の中心地からは離れた、市街地のもっとも外れに位置していました。
しかし、1930年(昭和5年)、諏訪神社のすぐ隣りに現在の京急線横須賀中央駅が開業すると、諏訪神社周辺も市街地化が進み、今では三浦半島でもっとも人通りが多く、栄えているエリアになりました。
諏訪神社は、横須賀中央エリアが、寒村から三浦半島随一の繁華街へと変貌していく様子を、常に間近で見守り続けてきた神様です。

酉の市が開かれる大鷲神社などの 諏訪神社の境内社
大鷲神社

諏訪神社の社殿の左手には、境内社・大鷲神社と稲荷神社が並んで建っています。
大鷲神社の祭礼「酉の市」は、毎年11月の酉の日に行われます。この11月の酉の日は、年によって「二の酉」までの年と「三の酉」まである年があり、2回ある年と3回ある年とがあります。
諏訪神社のある横須賀中央エリアは、横須賀はもちろん、三浦半島でも最大の繁華街です。そのため、酉の日は、開運や商売繁盛を願う人々を中心に、一日中、参拝客の列が途切れません。

稲荷神社

水天宮
諏訪神社の社殿の右奥には、水天宮が鎮座しています。水天宮は、安産祈願や子授け、子育てといった子どもに関するご利益と、漁業や海運、水難除けなどの水に関するご利益があるとされていて、横須賀では諏訪神社の境内社が唯一の水天宮です。

諏訪神社周辺の横須賀中央エリアの見どころ
横須賀中央大通り・横須賀新港方面









平坂方面



