浄光明寺は、鶴岡八幡宮境内の西側に位置する扇ヶ谷(亀ヶ谷)の支谷の一つ・泉ヶ谷にある、真言宗泉涌寺派の準別格本山です。
開基は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼と第6代執権・北条長時で、浄光明寺は北条氏とゆかりが深い寺院です。とくに、北条長時からはじまる赤橋流北条氏の菩提寺に位置付けられていました。
鎌倉幕府滅亡後も、後醍醐天皇の皇子・成良親王の祈願寺となったり、足利氏や鎌倉公方(鎌倉御所)の祈願寺となるなど、浄光明寺は室町時代に最盛期を迎えます。
浄光明寺の裏山の山上には、浄光明寺の西北にあたる藤ヶ谷に住んでいた鎌倉時代中期から後期にかけての公卿であり歌人の冷泉為相の墓があります。
浄光明寺境内と冷泉為相の墓は、国の史跡に指定されています。
山号 | 泉谷山 |
宗派 | 真言宗泉涌寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀三尊像 |
創建 | 1251年(建長3年)ごろ |
開山 | 真阿 |
開基 | 北条時頼、北条長時 |
浄光明寺の本尊・阿弥陀三尊像が安置されている収蔵庫や阿弥陀堂などの拝観、冷泉為相の墓などがある山上への参拝は、拝観料が必要です。また、希望すれば、阿弥陀三尊像などの解説をしていただけます。(いずれも、木曜日・土曜日・日曜日・祝日のみ。雨天と多湿の日、および8月は、拝観中止)
浄光明寺に参拝される際は、これらの拝観可能日に訪れることをオススメします。
INDEX
鎌倉の仏像特有の「土紋」が用いられた阿弥陀如来像
浄光明寺の本尊・木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像は、運慶などの慶派の流れをくむ作風の仏像です。1299年(正安元年)に、北条長時の孫・北条久時の発願によって建立されました。阿弥陀如来像には、中世の鎌倉の仏像にのみ見られる装飾技法である「土紋」と呼ばれる、土で型抜きした花などの装飾を貼り付ける技法が用いられています。この浄光明寺の阿弥陀如来像は、もっとも鎌倉らしい仏像の一つとされていて、両脇侍坐像とともに国の重要文化財に指定されています。
「土紋」が用いられている仏像は、浄光明寺と同じ真言宗泉涌寺派の覚園寺の阿弥陀如来像や、東慶寺の聖観音像、宝戒寺の歓喜天像などで見られます。
浄光明寺は、創建当初は浄土・真言・華厳・律など特定の宗派に捉われない諸宗兼学の寺院でしたが、後に真言宗に改宗されます。阿弥陀如来像にもこの改宗にともなうものと考えられる改修の跡が見られます。(阿弥陀如来像は主に浄土宗系の宗派の本尊として祀られる仏像です)
浄光明寺の本尊・阿弥陀三尊像は、かつては浄光明寺の本堂に当たる阿弥陀堂(仏殿)に安置されていましたが、現在はそのすぐ横の収蔵庫に移されています。阿弥陀堂には、新しい三世仏が安置されています。
江戸時代前期に再興された阿弥陀堂
鎌倉幕府が滅亡すると北条氏の庇護を失った浄光明寺でしたが、足利尊氏とその弟・直義によって堂宇が建立されたり、仏舎利や寺領の寄進などが行われました。
足利尊氏の正室は、鎌倉幕府最後の執権・北条守時(赤橋守時)の妹で、守時兄妹は浄光明寺の開基・北条長時の曾孫にあたります。鎌倉幕府倒幕の立役者の一人だった足利尊氏でしたが、中先代の乱後に後醍醐天皇から謀反の疑いをかけられた際、浄光明寺に籠り、この地で後醍醐天皇に反旗を翻すことを決断したと言われています。
室町時代に入ってからも、第3代鎌倉公方・足利満兼が祖父・基氏と父・氏満の分骨が納められるなど、浄光明寺は鎌倉公方(鎌倉御所)の祈願寺として、最盛期を迎えました。
鎌倉公方が滅亡すると、鎌倉のまちとともに浄光明寺も廃れていきました。江戸時代初期には伽藍は荒廃して、本堂さえない状態だったと言います。これを再興させたのが、鶴岡八幡宮寺の元喬僧都でした。
江戸時代前期の1668年(寛文8年)に、元喬僧都が母の追善供養のために資金を提供して、旧材を用いて仏殿を再興しました。これが現在の阿弥陀堂です。
浄光明寺の阿弥陀堂は、桟唐戸や花頭窓など、唐様(禅宗様)建築の特徴がよく見られます。
鶴岡八幡宮の大伴神主家の墓所
浄光明寺には、室町時代の文明年間より、鶴岡八幡宮の神主である大伴家の墓所が置かれるようになりました。大伴家は、鎌倉時代から明治維新に至るまで代々鶴岡八幡宮の神主を務めた家で、江戸時代の、鳥居を浮き彫りにした独特な形の墓碑も3基残されています。
「網引地蔵」と呼ばれる石造地蔵菩薩坐像
収蔵庫や阿弥陀堂などがある場所から、山すそに設けられた細い石段を登っていくと、広い平場に出ます。この平場の一番奥に大きなやぐらが口を開けていて、石造地蔵菩薩坐像が安置されています。
この地蔵菩薩坐像は、漁師の網にかかって海から引き揚げられたものと伝えられているため、「網引地蔵」と呼ばれています。冷泉為相により造立されたとも言われています。
この平場からさらに山上へ石段を登っていくと、鎌倉の市街地や由比ヶ浜を一望できる場所に、冷泉為相の墓があります。
その他の浄光明寺境内の見どころ
山門
浄光明寺の山門は、英勝寺の惣門だった四脚門です。一時期、民間の手に渡っていましたが、1926年(大正15年)に浄光明寺へ寄進されました。英勝寺には、山門や仏殿、鐘楼など、江戸時代前期の伽藍がそろっていますが、この山門(英勝寺の旧惣門)もそれらの建築物と同じころの寛永年間のものと考えられています。
浄光明寺の山門をくぐると、すぐ左側に楊貴妃観音像が出迎えてくれていて、さらにその前方に客殿と庫裏があります。
正面には、収蔵庫や阿弥陀堂、冷泉為相の墓などの拝観エリアへ続く参道が続いています。参道の途中には、虚空蔵菩薩像が安置されている祠があります。この祠を過ぎて、石段を登っていくとイヌマキの大木があり、その先が拝観エリアになっています。
山門の右側には、鐘楼と不動堂が建っています。
楊貴妃観音像
客殿
庫裏
虚空蔵菩薩像
イヌマキの大木
阿弥陀堂の前に建つイヌマキの大木は、創建時に前裁として植えられたものと考えられていて、推定樹齢は約750年となります。
鐘楼
浄光明寺では、例年、大晦日に除夜の鐘をつくことができます。その際、すぐ隣りの不動堂では護摩祈祷も行われます。