平作神社は、旧平作村に鎮座していた、皇大神社、白山社、御嶽社、正真子社(聖真子社)、諏訪社の5社が合併してできた神社です。
国の神社合祀の政策(一村一社の令)により、1913年(大正2年)、衣笠村(当時の衣笠村の大字は、衣笠・大矢部・小矢部・森崎・金谷・平作)の29の神社が合併し、衣笠神社が誕生しました。
この当時の平作村には現在の池上と阿部倉も含まれていましたので、これらの地域の神社も含めて、旧平作村からは10社が、衣笠神社に合祀されました。
しかし、衣笠神社は、平作などの遠隔の地域の住人にとっては参拝に不便なため、第二次世界大戦後は各町に復祀されて、池上と阿部倉にあった5社を除く、旧平作村の5社も平作神社として再建されました。
主祭神 | 大日孁貴尊:旧皇大神社 白山比咩命:旧白山社 天香語山命:旧御嶽社 穂別命:旧正真子社(聖真子社) 建御名方命:諏訪社 |
旧社格等 | 村社:旧皇大神社 |
創建 | 1957年(昭和32年) ※現在地に遷宮された年 |
祭礼 | 1月1日 新年祭 2月節分 節分祭 8月第1土曜日 例大祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
平作は大きな村でもなければ、ほとんど歴史の表舞台に顔を出すような土地でもありませんでした。それにも関わらず、平作には10社もの神社が点在していました。これは、平作が街道の宿場だったことが影響していると考えられます。
江戸時代の平作には、東海道の戸塚宿から鎌倉・逗子・葉山を経由して浦賀へ至る、西回りの浦賀道が通っていて、その宿場がありました。
旧諏訪社は平作村字伝馬場という場所に鎮座していましたが、この「伝馬場」という地名は、現在の郵便や配送の制度のルーツとも言える「伝馬制度」(荷物を運ぶ際に、すべての行程を同じ人や馬が運ぶのではなく、宿駅ごとに人馬を交替して運ぶ制度)の宿駅があったことに由来していると考えられます。
INDEX
浦賀道の賑わいとともに神様も集まった平作
平作神社に合祀された各神社の創建年は、皇大神社が1740年(元文5年)、白山社と御嶽社が1791年(寛政3年)、諏訪社が1835年(天保6年)、と、江戸時代中期から後期にかけてに集中しています(正真子社(聖真子社)は不詳)。
これは、平作村の人口が増えて、集落が開けてきた時期と考えることができます。
伊豆・下田にあった幕府の奉行所が浦賀に移ったのは1720年(享保5年)のことでした。浦賀奉行所開設以降、平作を通る浦賀道の人や物の往来が増加するようになったことで、平作に住む人が増え、他の地域から文化も伝播してくるようになり、平作にさまざまな神様がお祀りされるようになっていったのでしょう。
平作の中心地に遷座された平作神社
古くから平作村に鎮座していた神社が衣笠村に合併されるきっかけになったのは、1889年(明治22年)の町村制施行によって、平作村が周辺の村とともに衣笠村に合併したことでした。
1875年(明治8年)までの平作村は、上平作村・下平作村・池上村に分かれていました。これらの3村は、延宝年間(1673年~1681年)に分かれたものでしたが、再度、平作村として合流したことになります。
合併して衣笠村となった後は、今度は衣笠村が1933年(昭和8年)に横須賀市へ編入されました。
この再編のなかで、平作村の各地域は大字・小字になっていき、住居表示等で町名も整理されて、現在、衣笠村に合併される前の平作村は、平作・池上・阿部倉に分かれています。
戦後、衣笠神社から復祀された際、平作神社は、はじめ、旧皇大神社のあった陣ヶ原(都市計画道路久里浜田浦線の金谷方面との交差点がある辺り)に遷座されました。しかし、境内が手狭だったことと、平作の端のほうだったため、平作の中心地にあたる現在地の土地と交換し、再度遷宮されました。
現在の平作神社の境内には広場があり、多くの人たちで賑わうお祭りの際にも広々と使えているようです。
また、現在の平作神社の社殿は、2016年に再建されたもので、旧平作村に鎮座していた神社の御神体が祀られています。地域の歴史を継承するシンボルとして、堂々としたものです。