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衣笠城跡(衣笠城址)| 鎌倉幕府創設に貢献した三浦一族の本拠地

「衣笠城址」の碑(撮影日:2021.03.25) 横須賀
「衣笠城址」の碑(撮影日:2021.03.25)
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衣笠城きぬがさじょうは、平安時代から鎌倉時代にかけて三浦半島を領地としていた三浦氏の本拠地だった城です。ちょうど、三浦半島の中央に位置しています。現在の久里浜海岸に注ぐ、衣笠城の近くを流れる平作川に沿って、平作城佐原城怒田城などの支城も築城されました。

衣笠城は、天守閣や石垣で固められたお堀があるような城ではなく、山全体を天然の要害とした山城であったと考えられています。
周囲の地形は、横浜横須賀道路の衣笠ICや、県道27号横須賀葉山線(都市計画道路久里浜田浦線)の建設や宅地化で大きく変わっていますが、城の中心である本丸があったとされるあたりは、衣笠城跡衣笠城址)として開発の手を逃れて残されています。
県道27号を隔てた北側に位置する現在の衣笠山公園のあたりも、城の範囲であったと考えられています。

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大善寺の裏山に築かれた衣笠城

衣笠城址・蔵王権現社及御霊社遺跡碑(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・蔵王権現社及御霊社遺跡碑(撮影日:2021.03.25)

衣笠城が築かれる前、この場所には、奈良時代に行基不動堂蔵王権現社を建てたと伝わっています。不動堂蔵王権現社も現存しませんが、これらを管理する別当寺だった大善寺が今も残っています。

現在「衣笠城址」という大きな石碑が建っている、衣笠城でもっとも見晴らしが良い辺りには、経塚があったことも分かっています。経塚とは、仏教の経典を経筒に入れて地中に埋蔵した塚のことで、経典を後世に伝えるためであったり、追善供養を目的としている場合もあったようです。この衣笠城経塚衣笠坂の台経塚)からは、平安時代のものと見られる中国製の水滴(水さし)や青白磁などの副葬品も出土しています。これらも、この辺りが、不動堂蔵王権現社の修験道の場であったことを裏付けるようなものであると言えるでしょう。

このような場所に衣笠城を築城したのは、三浦氏の初代とされる三浦為通みうら ためみち(村岡為通)と考えられています。為通は、平安時代後期に起こった前九年の役での戦功によって源頼義から相模国三浦に領地を与えられ、この地を本拠地とし、地名から「三浦」姓を名乗るようになりました。(諸説あり)

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三浦大介義明が命を懸けて死守した一族

衣笠城址・三浦大介義明八百年記念碑(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・三浦大介義明八百年記念碑(撮影日:2021.03.25)

衣笠城のエピソードとして有名なのは、源頼朝による平家討伐の挙兵時に起きた衣笠城合戦です。
1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆国で挙兵した際、三浦一族もこれに呼応して頼朝のもとに駆けつけようとしますが間に合わず、三浦半島へ引き返す途中で平家方畠山重忠らと戦闘になり(小坪合戦小坪坂の戦い)、最終的には衣笠城での籠城戦になります。
圧倒的な兵力差で劣勢にたたされた三浦方は、時の三浦氏当主衣笠城主三浦義明みうら よしあきが一人残り、一族源頼朝と合流して再起をはかるために舟で安房国(房総半島)に向けて脱出しました。義明衣笠城で討ち死にしましたが、義明の子である三浦義澄みうら よしずみや、庶流の和田義盛わだ よしもり一族は無事に源頼朝と合流して、鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たすことになります。

その後、三浦氏宗家(本家)は、義澄義村泰村と三代続きましたが、1247年(宝治元年)に鎌倉で起きた宝治合戦三浦泰村とその一族が敗れると、衣笠城も廃城になったのではないかと考えられます。

衣笠城址・稲荷社(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・稲荷社(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・御霊神社(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・御霊神社(撮影日:2021.03.25)
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オオシマザクラがよく似合う衣笠城跡

衣笠城址・桜の季節-1(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・桜の季節-1(撮影日:2021.03.25)

古くから三浦半島有数の桜の名所として知られている衣笠山公園ほどではありませんが、衣笠城跡でもお花見をたのしめます。衣笠山公園ソメイヨシノが多いですが、衣笠城跡ではオオシマザクラが目立ちます。
オオシマザクラは古くから三浦半島に自生していて、横須賀市の「市の木」にも指定されています。また、オオシマザクラは花びらが白いため、白旗がシンボルの源氏に通じるところがあり、頼朝一族の命運を託して、散った、三浦義明を象徴しているようでもあります。

衣笠城址・桜の季節-2(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・桜の季節-2(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・桜の季節-3(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・桜の季節-3(撮影日:2021.03.25)

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衣笠城跡へのアクセス

衣笠城跡への主な行き方は、城の表口にあたる大手口(追手口)から大善寺を経由して向かうルートです。また、横須賀ごみ処理施設「エコミル」を経由して、大楠山ハイキングコースにもつながっています。

衣笠城址・太田和街道入口交差点付近の登り口(右側の坂道)(撮影日:2021.03.25)
衣笠城址・太田和街道入口交差点付近の登り口(右側の坂道)(撮影日:2021.03.25)

衣笠城大手口(追手口)は、県道27号横須賀葉山線(都市計画道路久里浜田浦線)と横浜横須賀道路衣笠ICの出入口になっている「衣笠城址前」交差点から数十mだけ横須賀IC寄り(北側)に行った、県道27号と太田和街道の交差点付近にあったと考えられています。
現在も、造成された壁面に埋もれるようにして、「衣笠城追手口遺址」の石碑が残されています。
衣笠城跡へは、ここを太田和方面(南西側)へは向かわず、斜め右(西側)の坂道を登って行きます。馬返しの坂と呼ばれた急坂を登って行くと、大善寺に着きます。このあたりには不動井戸と呼ばれる井戸があり、衣笠城の生活用水として使われていたと考えられています。大善寺の境内の裏手にある階段を登って行くと、衣笠城跡の平場に出ます。この平場の周辺が、衣笠城の本丸であったと言われています。

衣笠城追手口遺址の石碑(撮影日:2021.03.25)
衣笠城追手口遺址の石碑(撮影日:2021.03.25)

衣笠は三浦一族ゆかりの地

三浦一族の本拠地であった衣笠城跡の周辺には、三浦一族ゆかりの場所がたくさんあります。

三浦大介義明腹切り松(腹切り松公園)
平安時代末期、源頼朝の平家討伐の挙兵に際して、時の三浦氏宗家当主の三浦大介義明は、居城であった衣笠城近くのこの地で最期を迎えたと伝えられています。現在、義明が松の下で腹を切ったと伝わる場所の周辺は、...
満昌寺・三浦義明の墓
満昌寺まんしょうじは、三浦氏の初代とされる三浦為通みうら ためみち(村岡為通)から数えて第4代当主にあたる三浦大介義明みうら おおすけ よしあきを開基として、源頼朝が建立しました。満昌寺には三浦...
薬王寺旧跡・三浦義澄の墓
三浦義澄みうら よしずみ(幼名:荒次郎、次郎)は、鎌倉幕府創設期の三浦一族の当主です。荒次郎や次郎といった幼名からも分かるように、三浦義澄は、1180年(治承4年)の源頼朝挙兵時に衣笠城で討ち死にし...
近殿神社
近殿神社は、三浦氏の祖とされる三浦為通みうら ためみち(村岡為通)から数えて第6代当主にあたる、三浦義村みうら よしむらを御祭神として祀る神社です。三浦一族の本拠地であった衣笠城きぬがさじょうや...
清雲寺・三浦氏三代の墓
清雲寺は、三浦氏の初代とされる三浦為道みうら ためみち(村岡為道)から数えて第3代当主にあたる三浦義継みうら よしつぐが、父・為継ためつぐの供養のために建立した寺院です。本堂の背後には、三浦為継...

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DATA

住所 横須賀市衣笠町
アクセス
行き方

●徒歩の場合
JR横須賀線「衣笠駅」から衣笠山公園経由で、徒歩約45分

●バス利用の場合
・JR横須賀線「衣笠駅」から徒歩約6分の「衣笠十字路」バス停、または、京急線「横須賀中央駅」より
京急バス「長井」行き、「三崎口駅」行き、「横須賀市民病院」行き等の林方面行きにて『衣笠城址』下車、徒歩約20分

駐車場 なし ※衣笠山公園にはありますが、桜のシーズンは利用できません。
営業時間

24時間入場可能

休業日 なし
料金

無料

電話番号 046-822-8484(横須賀市教育委員会)
ウェブサイト https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/shi47.html
※このページに掲載している内容は、予告なく変更となっている場合があることをご了承ください。

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