平安時代末期、源頼朝の平家討伐の挙兵に際して、時の三浦氏宗家当主の三浦大介義明は、居城であった衣笠城近くのこの地で最期を迎えたと伝えられています。現在、義明が松の下で腹を切ったと伝わる場所の周辺は、「腹切り松公園」という名前の小さな街区公園として整備されています。
三浦義明率いる三浦一族は、源頼朝の挙兵に呼応して味方しますが、本拠地であった衣笠城で平家方に包囲されてしまいます。平家方との兵力の差は歴然であったため、子の三浦義澄ら一族を源頼朝と合流させるために、老齢の義明はひとり衣笠城に残り、捨て石となりました。
義明の最期は、衣笠城を抜け出し、その近くのこの場所にあった松の木の下で自害したと伝えられています。(諸説あり)
石橋山の戦いで惨敗した源頼朝でしたが、無事に三浦義澄ら三浦一族と合流し、次々に東国の武士を味方につけながら勢力を拡大し、平家を滅ぼし、最終的には鎌倉に幕府を開きます。
源頼朝は、挙兵から14年後の1194年(建久5年)、この場所から5分ほどの場所に、鎌倉幕府創設の礎石となった三浦義明を弔うために、満昌寺を建立しました。満昌寺には、三浦義明のものと伝わる墓があります。(三浦義明のものと伝わる墓は、鎌倉・材木座の来迎寺にもあります。)