諸磯神明社は、戦国時代の武将・三浦道寸(義同)・荒次郎(義意)父子の居城・新井城跡を対岸に望む、諸磯湾南岸に鎮座する旧諸磯村の鎮守です。
神社のすぐ隣りには諸磯港が整備されています。しかし、うっそうとした木々に囲まれた境内に入ると、ここが海辺の神社だということを忘れてしまうほど、神聖な杜の空気に包まれています。
諸磯神明社の創建は、平安時代末期から鎌倉時代初期の建久・正治年間(1190年~1201年)に、伊勢地方から移住して来た人々が伊勢神宮を勧請したのがはじまりと伝えられています。
三浦半島南部の小さな漁港には、諸磯神明社の由緒と同じような、伊勢地方からの移住者が祀ったと伝わる神明社が多くみられます。かなり昔から、黒潮に乗って魚の群れを追いかけているうちに、三浦半島にたどり着き、この地に根を下ろしたという人々が相当数いたようです。
このように、近畿地方にルーツを持つ神社が多い三崎エリアの神社の中でも、諸磯神明社は海南神社に次ぐ長い歴史を持っています。
主祭神 | 天照皇大神 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 建久・正治年間(1190年~1201年) |
祭礼 | 4月4日 祈年祭 9月4日 例大祭(神輿渡御は4年に一度) 11月25日 新嘗祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
諸磯神明社の大鳥居は、堂々とした佇まいの中に美しさも感じられる、三浦半島でも有数の神明鳥居の一つです。
直線のみで構成された神明鳥居は、シンプルがゆえに特徴を出しにくいものです。しかし、諸磯神明社の大鳥居は、最近ではめずらしい大型の木造鳥居であることに加えて、銅板巻きの笠木(天井部分の梁)がデザイン上のアクセントにもなっていて、シンプルなのに独特と言う点が参拝者に強いインパクトを残す結果になっていることでしょう。
諸磯にあった三浦道寸の物見塚
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、諸磯の海岸には三浦道寸が敵の侵入を見張るために使った「物見塚」があったと言います。また、このあたりの山に、三浦道寸の家臣・大森越後守の城があったという言い伝えもあります。
諸磯神明社の対岸にあった三浦道寸の新井城は、リアス海岸の断崖絶壁に築かれた自然の要害です。このような複雑な地形は守りやすいというメリットがある反面、攻める側にとっても隠れやすいというデメリットもあります。こうした弱点を補う目的で、新井城の対岸にも出城のような機能を設けていたのかもしれません。
諸磯の三浦道寸ゆかりの出城は、なにか遺構が残っているわけでもなく、その正確な場所も分かりませんが、半島の先端にある諸磯神明社の裏山は、そのような見張りにはうってつけの場所だったと考えられます。
現在、諸磯の海岸には、山の上ではありませんが、安全な航海の道しるべとなるべく、諸磯埼灯台が建っています。
諸磯神明社に合祀された神様
諸磯神明社には、明治後期から大正初期にかけて、旧諸磯村に祀られていた白鳥神社(祭神:日本武尊)と日枝神社(祭神:大山咋命)が合祀されています。
この他に、諸磯神明社には三浦道寸の子・荒次郎の妻・小桜姫が祀られているという逸話があります。しかしこれは、1894年(明治27年)に出版された村井弦斎の小説「桜の御所」の影響によるもので、モデルとなった人物はいたのかもしれませんが、小桜姫は架空の人物です。
実在する歴史上の人物をベースとした物語ではあっても、これはマンガやアニメの聖地巡礼と同じようなものです。
諸磯神明社の境内社
「新編相模国風土記稿」には、諸磯神明社の末社として「若宮」の名前が見えます。現在の境内社は、境内に掲示されている由緒によれば、八幡神社(祭神:誉田別尊)、浅間神社(祭神:木花咲耶姫尊)、猿田彦神社(祭神:猿田彦尊)、稲荷神社(祭神:宇迦之御魂尊)が鎮座しています。
現在の八幡神社が古い史料の「若宮」に当たるものであるとみられます。神社名が異なるのは、おそらく、もともと「若宮八幡宮」(略して「若宮」)として八幡宮・本宮の御祭神である誉田別尊を勧請した神社(本宮より新しいため「若宮」と称したか)を、明治維新後に名称を改めたものと考えられます。