新井城は、戦国時代の武将・三浦道寸(義同)・義意父子の居城で、現在の油壺の岬の先端部分一帯にありました。三浦道寸・義意の時代の三浦一族は、鎌倉時代の三浦一族と区別するため、「相模三浦氏」などと呼ばれています。
相模三浦氏は、相模国の中央に位置する岡崎城(現在の伊勢原市)を本拠地としていました。しかし、伊豆や小田原などの西から徐々に勢力を拡大してきていた、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏と武力衝突が起きるようになります。相模三浦氏は徐々に南東に追い込まれ、最終的に、三浦半島南端の新井城まで後退することになります。
相模三浦氏は新井城に3年間籠城して抵抗した後、力尽き、1516年(永正13年)に一族は滅びてしまいます。
鎌倉時代に宝治合戦で鎌倉幕府の執権・北条氏に滅ぼされた三浦一族は、三浦氏佐原流の三浦盛時によって再興されたものの、戦国時代にも後北条氏という「北条氏」を名乗る勢力によって再び滅ぼされたため、二度も「北条氏」によって滅ぼされたことになります。


INDEX
新井城の戦いで水面が血に染まったことが由来という「油壺」の地名

新井城跡の高台からまわりの地形を見渡すと、リアス海岸が断崖絶壁の複雑な地形をつくっていることを確認でき、自然の要塞の上に築かれていたことが良く分かります。3年間もの長い年月、籠城戦を戦えたというのもうなづけます。
籠城戦も最期を迎えると、相模三浦氏の一族やその家臣たちは油壺湾に投身して、水面が血で染まって油を流したようになったため「油壺」と呼ばれるようになったとされています(諸説あり)。
なお、新井城跡からは土塁などの遺構が発掘されていますが、東京大学三崎臨海実験所の敷地内にあるため、通常は立ち入ることができません。新井城の本丸も、東京大学三崎臨海実験所の敷地内にあったとされています。
油壺湾の眺めや新井城の空堀の跡は、三浦市油壺駐車場から荒井浜に向かう途中の道で見ることができます。油壺湾は「かながわの景勝50選」に選ばれていて、これを記念した石碑がこの道端のビュースポットに建っています。
荒井浜では、例年5月の最終日曜日に、この地で滅んだ三浦一族(相模三浦氏)を偲んで、「道寸祭り」が開催されています。

三浦道寸・義意 親子の墓
三浦義意の墓

三浦道寸とその子・義意の墓は、油壺の岬の先端に建っています。
三浦義意の墓は、京急油壺温泉キャンプパーク(旧京急油壺マリンパーク)を正面に見て、駐車場の右奥にあります。その隣りには、「新井城碑」も建っています。
三浦道寸(義同)の墓

三浦道寸(義同)の墓は、胴網海岸を見下ろす場所に建っています。義意の墓のすぐ近くから胴網海岸へ降りられる道があり、その途中で少し道をそれると、木々の中にひっそりと三浦道寸の墓が建っています。
三浦道寸は、室町時代から戦国時代にかけて栄えた上杉氏の諸家の一つである扇谷上杉家の出身で、新井城の城主だった三浦時高の養子に入りました。その後、時高に実子・高教が生まれたため、道寸と時高・高教は対立するようになりましたが、最終的に相模三浦氏の家督は、三浦道寸が高教から奪うかたちで継いでいます。
このときに、鎌倉時代に栄えた三浦氏から続く相模三浦氏本流の純粋な血統は途絶えたとも言えます。
新井城址(新井城跡)周辺の見どころ





