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新井城跡(新井城址)・三浦道寸(義同)の墓・三浦荒次郎(義意)の墓

新井城跡(新井城址)・新井城碑(撮影日:2022.01.31) 三浦
新井城跡(新井城址)・新井城碑(撮影日:2022.01.31)

新井城あらいじょうは、戦国時代の武将・三浦道寸みうら どうすん義同よしあつ)・荒次郎義意よしおき)父子の居城で、現在の油壺の岬の先端部分一帯にありました。三浦道寸荒次郎の時代の三浦一族は、主に平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した三浦一族と区別するため、「相模三浦氏」などと呼ばれています。

相模三浦氏は、相模国の中央に位置する岡崎城(現在の伊勢原市)を本拠地としていました。しかし、伊豆や小田原などの西から徐々に勢力を拡大してきていた、北条早雲ほうじょう そううん伊勢宗瑞いせ そうずい)率いる後北条氏と武力衝突が起きるようになります。相模三浦氏は徐々に南東に追い込まれ、最終的に、三浦半島南端の新井城三崎城まで後退することになります。
相模三浦氏新井城に3年間籠城して抵抗した後、力尽き、1516年(永正13年)に一族は滅びてしまいます。

鎌倉時代に宝治合戦で鎌倉幕府の執権・北条氏に滅ぼされた三浦一族は、三浦氏佐原流三浦盛時によって再興されたものの、戦国時代にも後北条氏という「北条氏」を名乗る勢力によって再び滅ぼされたため、二度も「北条氏」によって滅ぼされたことになります。

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新井城の戦いで水面が血に染まったことが由来という「油壺」の地名

新井城跡から油壺湾を望む(撮影日:2015.05.15)
新井城跡から油壺湾を望む(撮影日:2015.05.15)

新井城跡の高台からまわりの地形を見渡すと、リアス海岸が続く断崖絶壁の複雑な地形の上に築かれていたことが良く分かります。また、新井城は、油壺の岬先端部の付け根にあたる「内の引橋」だけで内陸とつながっていたため、ここを意図的に落とすことで陸地からの敵の進入を遮断することができました。このように、新井城は自然の要害の地に築かれていたため、3年間もの長い年月、籠城戦を戦うことができたと言えます。
籠城戦も最期を迎えると、相模三浦氏の一族やその家臣たちは油壺湾に投身して、水面が血で染まって油を流したようになったため「油壺」と呼ばれるようになったとされています(諸説あり)。

なお、新井城跡からは土塁などの遺構が発掘されていますが、東京大学三崎臨海実験所の敷地内にあるため、通常は立ち入ることができません。新井城の御殿(本丸)も、東京大学三崎臨海実験所の敷地内にあったとされています。

油壺湾の眺めや新井城の空堀の跡は、三浦市油壺駐車場近くから荒井浜に向かう道の途中で見ることができます。油壺湾は「かながわの景勝50選」に選ばれていて、これを記念した石碑がこの道端のビュースポットに建っています。

新井城址(新井城跡)・御殿跡方面を望む(撮影日:2023.05.28)
新井城址(新井城跡)・御殿跡方面を望む(撮影日:2023.05.28)
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道寸祭りと新井城跡(新井城址)の一般公開

新井城址(新井城跡)・空堀跡(撮影日:2023.05.28)
新井城址(新井城跡)・空堀跡(撮影日:2023.05.28)

荒井浜では、例年5月の最終日曜日に、この地で滅んだ三浦一族相模三浦氏)を偲んで、「道寸祭り」が開催されています。また例年、同日に、新井城跡の一般公開も行われています。
一般公開時には、ガイドによる新井城の現地解説や三浦道寸荒次郎の逸話などを聞くことができます。「道寸祭り」は流鏑馬に似た笠懸がメインのイベントですが、歴史や三浦一族に興味がある方は、普段は入ることができない新井城跡の一般公開もおすすめです。

新井城址(新井城跡)・高やぐら跡(撮影日:2023.05.28)
新井城址(新井城跡)・高やぐら跡(撮影日:2023.05.28)
新井城址(新井城跡)・一般公開で展示された横須賀開国甲冑隊メンバーお手製の甲冑(撮影日:2023.05.28)
新井城址(新井城跡)・一般公開で展示された横須賀開国甲冑隊メンバーお手製の甲冑(撮影日:2023.05.28)
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三浦道寸・荒次郎 親子の墓

三浦荒次郎(義意)の墓

三浦義意の墓(撮影日:2022.01.31)
三浦荒次郎(義意)の墓(撮影日:2022.01.31)

三浦道寸とその子・荒次郎の墓は、油壺の岬の先端に建っています。
三浦荒次郎の墓は、京急油壺温泉キャンプパーク(旧京急油壺マリンパーク)を正面に見て、駐車場の右奥にあります。その隣りには、「新井城碑」も建っています。

三浦荒次郎は、新井城落城の際に、自ら首をかき切って死んだという逸話が残っています。その首は、北条早雲が本拠地としていた小田原まで飛んで行ったと言います。
また、三浦荒次郎の墓のすぐ下に位置する「胴網海岸」という名前の海岸は、「荒次郎の胴体が網にかかった海岸」に由来すると言われています。

三浦道寸(義同)の墓

胴網海岸・三浦道寸(義同)の墓(撮影日:2018.08.03)
三浦道寸(義同)の墓(撮影日:2018.08.03)

三浦道寸(義同)の墓(供養塔)は、胴網海岸を見下ろす場所に建っています。義意の墓のすぐ近くから胴網海岸へ降りられる道があり、その途中で少し道をそれると、木々の中にひっそりと三浦道寸の墓が建っています。

三浦道寸は、室町時代から戦国時代にかけて栄えた上杉氏の諸家の一つである扇谷上杉家の出身で、新井城の城主だった三浦時高の養子に入りました。その後、時高に実子・高教が生まれたため、道寸時高高教は対立するようになりましたが、最終的に相模三浦氏の家督は、三浦道寸高教から奪うかたちで継いでいます。
このときに、鎌倉時代に栄えた三浦氏から続く相模三浦氏本流の純粋な血統は途絶えたとも言えます。

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新井城跡(新井城址)周辺の見どころ

荒井浜海岸(荒井浜海水浴場)
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【閉園】京急油壺温泉キャンプパーク
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諸磯埼灯台&浜諸磯(諸磯崎)
諸磯もろいそは、三浦半島南西端に位置する、風光明媚な場所です。諸磯埼灯台はその岩場に建っています。周辺では磯遊びや釣りなどをたのしむことができます。まわりは観光地化されていないため落ちつける環境があ...

DATA

住所 三浦市三崎町小網代
アクセス
行き方

京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス『油壺温泉』行きで終点下車

駐車場 なし(三浦市油壺駐車場など、近隣にコインパーキングあり)
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