大正から昭和初期に活躍した小説家・芥川龍之介は、東京帝国大学を卒業すると、横須賀にあった海軍機関学校で英語の教官として働くようになりました。海軍機関学校退官後の1919年(大正8年)に発表された短編小説「蜜柑」は、勤務先の横須賀から下宿先の鎌倉への帰路に、通勤で利用していた横須賀線の車内で芥川龍之介自身が体験した出来事を元に書かれたものです。
横須賀線の線路が目と鼻の先を走っている、横須賀駅と田浦駅の間にある吉倉公園には、この芥川龍之介の「蜜柑」の文学碑が建っています。
INDEX
芥川龍之介の短編小説「蜜柑」の文学碑
芥川龍之介の短編小説「蜜柑」では、横須賀線の車内で主人公と居合わせた少女が、トンネルを抜けた先の踏切付近で、見送りに来ていた3人の子どもたち(弟や妹たち)に向かって車窓から蜜柑を投げるシーンがハイライトとなります。
このモデルとなった場所が吉倉公園のあたりとされているため、ここに「蜜柑」の文学碑が建てられています。
小説では、少女が蜜柑を投げるのは、横須賀駅を出てから2つ目以降のトンネルを出た先ですが、吉倉公園は横須賀駅を出て1つ目のトンネルの先にあるため、厳密には合っていませんが、近くに踏切もあり、小説の雰囲気はじゅうぶん感じられます。
仕事帰りで疲労と倦怠に頭の中を支配されていた小説の主人公は、はじめ、発車間際に乗り込んできた二等と三等の車両の区別もつかない田舎者の少女を、不可解な、下等な、退屈な人生の象徴と感じ、快く思っていませんでした。しかし、おそらくこれから奉公先に赴くのであろう少女が、弟や妹たちに蜜柑を投げ与えるシーンを目のあたりにして、疲労と倦怠を、不可解な、下等な、退屈な人生を、わずかにではありますが、忘れさせてくれることになります。
芥川龍之介の短編小説「蜜柑」は、とても短い小説です。その中で、夕暮れ、トンネル、車内に入り込む汽車の煙、そして、軍港・横須賀、といったモノクロの暗いイメージが漂っていますが、この少女が投げる蜜柑だけがほとんど唯一、明るい光のように描かれています。
当時の二等車は、現在のグリーン車に当たります。小説「蜜柑」に出てくる少女は、三等車の切符を握りしめていましたが、二等車の主人公が座る前の席へ腰を下ろしたこともあり、主人公は不快に感じることになりました。
なお、客車が三等級制だった時代、二等車を表わす車体形式はイロハの「ロ」が割り当てられていました。(一等車は「イ」、三等車は「ハ」)
現在でも、JRのグリーン車の車体形式は「サロE235-1000」(横須賀線の車両の例)といったように「ロ」が割り当てられていますが(「サ」は、動力車ではない、中間付随車を指します)、これは三等級制時代の名残りです。
横須賀線の絶好のビュースポット
吉倉公園は、海上自衛隊の吉倉桟橋に隣接しています。しかし、横須賀線の線路の裏にある吉倉桟橋の眺めはあまり良くはありません。
その代わり、吉倉公園は横須賀線を間近で眺められる絶好のビュースポットで、とくに小さな男の子には最高のロケーションでしょう。
吉倉公園には、普通の遊具や広場、トイレや水場などがそろっていて、小さいながらも整った公園です。