聖徳寺坂は、国道16号の安浦二丁目交差点と三崎街道(県道26号横須賀三崎線)の上町3丁目交差点の間にある坂道です。坂の名前の由来になっている「聖徳寺」は、坂の中ほどを立体交差で横切る京急線の線路より、やや坂上側にあります。
横須賀の下町地区(現在の横須賀中央駅周辺の、若松町や大滝町、米が浜通など)と上町地区(現在の上町や深田台)を結ぶ道路の一つとして発達し、現在も主に、国道16号と三崎街道とのショートカットとして使われていて、交通量の多い通りです。
聖徳寺坂の勾配は、聖徳寺坂下(側道との分岐地点)~聖徳寺坂上(聖徳寺方面への側道と上町方面への旧浦賀道との交差点)の平均で、約6%(約3.4度)ほどです(水平距離が300mで垂直距離が18mで計算)。
時代とともに道路の役割が変わっていくというのはよくある話です。聖徳寺坂もそんな道の一つではあるのですが、たび重なる改修や工夫のあとが、迷路のようにいたるところに残っている、唯一無二の形状をした坂道です。悪く言えば継ぎはぎだらけということになりますが、京急線を含め三層の立体交差、トンネル、階段、旧家の長屋門、古刹など、いろいろな要素がこの短い区間に凝縮されています。
浦賀道の一部だった聖徳寺坂旧道

聖徳寺坂は、一見するとよくある普通の坂道に見えますが、新道のバイパスと、旧道に接続するための側道が入り組んだ、少し複雑な形状をしています。
初期の聖徳寺坂はかつての浦賀道(東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)のルート上にあたります。
浦賀道は、浦賀方面からたどった場合、矢ノ津坂から大津で海に出ると、そこからしばらく当時の海岸線に沿って進み、聖徳寺坂で内陸に方向転換して、深田・中里(現在の深田台・上町)方面に向かって行くというルートでした。今の京急線・県立大学駅前を走る道から、京急線のガード下をくぐり、聖徳寺前を通って上町に抜ける道筋が、かつての浦賀道であり、初期の聖徳寺坂です。
現在は新道で分断されるかたちになっていますが、聖徳寺坂の浦賀方面側の入口には、このあたりの名家で、江戸時代には代々名主(現代の村長に相当)を世襲した永嶋家(永島家)が屋敷を構えています。「赤門」と呼ばれ親しまれているその場所には、今も浦賀道を示す道標が残されています。

下町と上町のショートカットという役割の新道
現在の安浦町が、明治後期から大正前期にかけて行われた埋め立て事業で誕生するまでは、この赤門の前まで海が迫っていて、この場所が当時の「聖徳寺坂下」でした。
明治後期に横須賀~浦賀間で運行が開始された乗合馬車は、この聖徳寺坂下が横須賀側の起点でした。
この頃の横須賀・下町地区と大津・浦賀方面の間の海岸線は、田戸崎(現在の横須賀市自然・人文博物館下あたりからヤマダデンキテックランド横須賀店あたりまでのびていた岬)で分断していました。田戸崎の下には、田戸トンネルや観念寺トンネルと呼ばれたトンネルが通されていましたが、これは水道トンネルを拡張したものだったため、ごく小さなトンネルだったようです。
この田戸崎を切り崩した土砂を多く用いて埋め立てたのが、今の安浦町です。同時に、田戸崎がなくなったことによって、海岸線を通る幹線道路が通されていくことになり、横須賀~浦賀方面の行き来も、旧浦賀道の聖徳寺坂経由ではなく、埋立地を通る現在の国道16号経由が主流になっていきます。
聖徳寺坂もまた、かつての聖徳寺坂下・赤門前から安浦町の埋め立てによってできた新しいまちに向かって延びていき、旧浦賀道という幹線としての役割を終え、下町地区や埋立地と上町地区をショートカットで結ぶ道として機能していくことになります。

このような変化が、限られた土地の中で、スクラップ&ビルドで造り変えるのではなく、古い歴史を残しながら起こっていったため、聖徳寺坂は唯一無二の不思議な形状になっています。車で新道をショートカットするだけでは気づくことはできませんので、ぜひ実際に歩いて、改修の痕跡を体感してみるのがおすすめです(予習には、ページ下部の地図(オープンストリートマップ)を最大まで拡大表示してみてください)。

聖徳寺坂周辺の見どころ
聖徳寺坂周辺



聖徳寺坂下方面


聖徳寺坂上・上町方面



