畠山重保は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将・畠山重忠の嫡男です。
父・重忠は、源頼朝が伊豆で挙兵した当初は平家方についていましたが、すぐに頼朝に加勢するようになり、以後は鎌倉幕府の有力御家人として歴代の鎌倉殿に仕えました。
北条時政らの陰謀によって排除された畠山重保
源頼朝が死没し、鎌倉幕府の実権を北条氏が握るようになると、他の多くの有力御家人と同じように、畠山重忠・重保親子も幕府内の政争に巻き込まれていくことになります。
1204年(元久元年)、鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)・源実朝の妻となる坊門信清の娘を迎えに行くために、畠山重保らは京都に上がりました。その際、重保は、京の平賀朝雅の屋敷で、朝雅と口論になる騒ぎを起こしています。
この二人は、畠山重保が武蔵国の有力武士団の跡取りで、重保の母は北条時政の「前妻」の娘、平賀朝雅は武蔵守(武蔵国の長官)で、朝雅の妻は北条時政の「後妻」の娘、という微妙な間柄です。
時の執権・北条時政と後妻・牧の方、そして二人の娘婿である平賀朝雅が武蔵国を掌握するためには、畠山重保とその一族は排除したい存在であり、時政らにとってはその良い口実ができたとも言えます。
1205年(元久2年)、北条時政と牧の方は畠山重忠・重保親子に謀反の企てがあるとでっちあげ、まずは、三浦義村らに鎌倉にいた畠山重保を由比ヶ浜で謀殺させます。鎌倉での騒ぎを聞きつけて駆けつけようと向かっていた畠山重忠は、途中の二俣川で時政の子・北条義時らの大軍と遭遇して、敗死し、北条時政と牧の方の計画は成功します。
しかし、わずかな兵で鎌倉に向かっていた畠山重忠らに謀反の疑いなどなかったことは明らかで、源頼朝の鎌倉幕府創設以来の功労者だった無実の畠山重忠・重保親子の排除に不信感を持っていた北条義時と政子によって、北条時政と牧の方は伊豆に追放され、平賀朝雅も殺害されることになります。
なお、北条義時と政子は、北条時政の「前妻」の子です。
畠山重忠・重保親子ゆかりの地に残る重保の墓
畠山重保の墓とされる五輪塔は、鎌倉から朝比奈峠を越えた、横浜市金沢区の釜利谷に建っています。この辺りに残る伝承によると、重保はこの近くの山中まで逃れて来て自害したと伝わっています。
畠山重保の墓がある周辺には、重保の幼名である「六郎」の名前が付いた「六郎橋」や「六郎ヶ谷」といった名前が残っています。また、後に鎌倉から移転して来たものですが、すぐ近くには、父の重忠が創建した東光禅寺があり、境内には畠山重忠の供養塔が残っています。
「金沢」という地名が畠山氏に関係があるとする説もあり、この辺りが畠山重忠・重保親子ゆかりの地であることは間違いありません。
畠山重保の墓は禅林寺の境外墓地となっていて、毎年、重保の命日である6月22日には「畠山重保公顕彰墓参会」が営まれています。
なお、殺害された由比ヶ浜にも近い、畠山重保の屋敷跡とされる場所にも畠山重保の墓とされる宝篋印塔が建っています。こちらは明徳4年(1393年)の銘が刻まれていて、南北朝時代のものとされている釜利谷の畠山重保の墓よりわずかに後の時代のものです。
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