三浦義村は、鎌倉幕府創設に重要な役割を果たした三浦義澄の次男で、三浦氏の最盛期を築いた策士です。1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵した際に、衣笠城にたてこもり、自身の命と引き換えに義澄ら一族を頼朝のもとに向かわせて討ち死にした三浦大介義明は、義村の祖父にあたります。
幕府内の政変や内乱で命を落としていくことが多かった三浦一族の武将たちのなかで、三浦義村は執権北条氏と姻戚関係を持つなど常に主流派に属して、最後まで幕府の最有力の御家人としてその生涯を全うしました。
INDEX
生涯・略年表
生誕
三浦義村の生誕は謎に包まれていて、いつ生まれたのか記録が残っていません。そのため、どの出来事があったときに何歳だったのか、何歳まで生きたのか、分かっていません。
幼少期
1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵した際には、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」などの史料にその名前は登場しないことから、このころはまだ幼少だったことをうかがい知ることができます。
三浦義村の名前が史料に現われるのは、「吾妻鏡」の寿永元年(1182年)8月11日の条で、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願のために関東各所に使者が派遣されたなかに、義村の幼名である「三浦平六」が見られるのがはじめてです。
その後の頼朝による平家討伐や奥州征伐では、父・義澄とともに、その名前が登場するようになっていきます。
結婚・子孫
三浦義村の妻は、現在の神奈川県南西部を所領とした、土肥遠平の娘などです。遠平の父は、石橋山での挙兵時から源頼朝に味方した土肥実平です。三浦義村と遠平の娘との間には、義村の後に三浦氏宗家(本家)を継ぐことになる三浦泰村が生まれています。
三浦義村の娘の一人・矢部禅尼《初》※《》内は「鎌倉殿の13人」の役名は、北条義時(幼名は小四郎)の子・泰時(幼名は金剛)に正室として嫁ぎました。この、結果的に三浦氏と北条氏それぞれの本家同士を結び付けることになる結婚は、源頼朝の命によるもので、「吾妻鏡」の建久5年(1194年)2月2日の条にそのエピソードが書かれています。
この時点では、まだ、三浦氏の当主は三浦義村ではなく三浦義澄です。
もう一方の北条氏の当主は北条時政で、北条義時は時政の存命の子の中では最年長であったものの、この時点では、所領の地名から江間氏を名乗っています。
しかし、矢部禅尼と北条泰時は後に離縁し、矢部禅尼は三浦一族の佐原盛連と再婚しています。
三浦義村の孫にあたる矢部禅尼の子には、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時との子・時氏や、佐原盛連との子で、義村の死後、宝治合戦で三浦一族が滅んだ後に三浦氏宗家を継いで三浦氏を再興することになる三浦盛時らがいます。
青年期・壮年期
三浦義村が歴史の表舞台に出てくるようになるのは、源頼朝の死後のことです。
三浦義村は、源頼朝の死後、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)となった若い源頼家を支えるために設けられた「十三人の合議制」には選ばれていません。
三浦氏宗家(本家)からは義村の父・義澄が選ばれていることに加えて、三浦一族からは、本来の本家筋とも言える和田義盛も選ばれています。北条氏からは北条時政・義時が親子で選ばれていますが、義時は、三浦氏に対する和田氏のような、北条氏の分家である江間氏の当主として選ばれたということが考えられます。
そして、なによりも、三浦義村の生年は不明ですが、義村は「十三人の合議制」のほとんどのメンバーよりは一世代下にあたり、この時点では目立った実績がなかったということが大きな理由でしょう。
まずは、頼朝の死の直後から起きることになった、将軍家の後継者争いや鎌倉幕府の実権をめぐる争いで中心的な役割を担います。
有力御家人の排除と北条時政の失脚
鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家の最側近の一人であった梶原景時の失脚につながる「梶原景時の変」では、景時の執拗な讒言で苦しむ御家人を代表して三浦義村が決起し、有力御家人66人を集めて景時を告発しました。
その後に続く「比企能員の変」や「畠山重忠の乱」では、事件を仕掛けた北条氏に味方して、ともに武蔵国の有力御家人であった比企氏と畠山氏の滅亡に加担することになります。この2つの事件の首謀者は初代執権・北条時政とその妻・牧の方《りく》でしたが、さらに時政自らの娘婿・平賀朝雅を将軍にそえようと動いた「牧氏事件(牧の方事件)」で時政・牧の方は失脚し、これと対立していた北条義時が執権に就任することになります。
これらの一連の事件を三浦義村の立場から見ると、義村や三浦一族にとってライバルとなる勢力がうまく滅んでいったことになります。
和田義盛一族の滅亡
同じ三浦一族であり従兄弟の和田義盛が窮地に陥った「和田義盛の乱(和田合戦)」では、当初は和田義盛に味方することを約束していたものの、直前で裏切り、北条義時とともに和田氏を滅亡に追いやりました。
このときの三浦義村は、ただ単に、和田義盛より北条義時との結びつきを重要視しての行動であったと考えられる他、同じ三浦一族の中で、義村が率いる三浦氏宗家(本家)と肩を並べる勢力となっていた和田氏の排除を目的とした義村の企てだった可能性も考えられます。
源実朝の暗殺
鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)源実朝が公暁(幼名は善哉)によって暗殺された事件では、三浦義村を頼って逃げてきた公暁を、逆に討ち取っています。公暁は、第2代将軍・源頼家の次男または三男で、三浦義村が乳母夫になっていました。そのため、実朝暗殺の黒幕は三浦義村だとする説もあります。
このとき公暁は、太刀持ちとして実朝の側にいた源仲章も殺害していますが、この役は直前まで北条義時が務めていたため、源仲章を北条義時と誤って殺害したとされています。もし、実朝暗殺の黒幕が三浦義村であった場合、北条義時も合わせて殺害しようと計画していた可能性があります。
承久の乱
後鳥羽上皇率いる朝廷と、鎌倉幕府第2代執権・北条義時率いる鎌倉幕府の全面戦争となった「承久の乱」では、三浦義村を味方につけて倒幕を目論む上皇方をあざむくように北条義時に味方して、義村は本格的な戦の前に勝敗を決する働きをしました。このとき、上皇方には義村の弟・三浦胤義が主力メンバーとして付いていて、後鳥羽上皇は三浦義村・胤義兄弟の力を利用して北条義時を倒すことを目論んでいました。
このように三浦義村は、常に勝ち馬に乗り続けることで、激動の鎌倉時代前期を生き抜きました。
あるいは、見方を変えれば、三浦義村が味方した側が常に勝ち続けたとも言えます。
晩年
三浦義村は、盟友と言われる北条義時や尼将軍・北条政子が死没した後も存命で、晩年は宿老として北条氏による執権体制を支える存在でした。
よく、三浦一族は北条氏に滅ぼされたため険悪な関係だったというイメージを持たれがちですが、少なくとも表向きは、三浦義村は最期まで北条氏と協調関係にありました。その関係が目に見えるかたちで崩れていくのは、義村の子・三浦泰村の代になってからです。
略年表
西暦 | 和暦 月日 | 出来事 |
---|---|---|
不詳 | 不詳 | 三浦義澄の次男として生誕。母は、伊藤祐親の娘。生年など、詳しいことは分かっていない。幼名は「平六」。 |
1180年 | 治承4年 8月27日 | 【衣笠城合戦】 三浦一族の本拠地・衣笠城が平家方の畠山重忠の軍勢の攻撃により落城し、祖父・三浦大介義明が討死。 生きのびた一族は、栗浜(久里浜)より舟で安房国(房総半島)に向かう。海上にて、石橋山の戦いで敗北した北条時政・義時らと合流する。
|
1182年 | 寿永元年 8月11日 | 源頼朝の妻・北条政子の安産祈願のため、安房国の東条庤に赴く。 |
1191年 | 建久元年 12月11日 | 平家討伐および奥州征伐を成し遂げた源頼朝は、京へ上洛する。その際、父・三浦義澄が頼朝から勲功を称える10人に選ばれるが、それを譲られるかたちで三浦義村が右兵衛尉に任じられる。 |
1199年 | 正治元年 10月28日 | 【梶原景時の変】 三浦義村が中心となり、和田義盛、三浦義澄ら、鎌倉幕府の有力御家人66人が、侍所別当・梶原景時を告発する連署状を作成して、第2代将軍(鎌倉殿)源頼家側近の大江広元に提出。梶原景時は失脚し、翌年、景時とその一族は討死する。 ことの発端は、結城朝光が梶原景時によって謀反の疑いがあると源頼家に讒言されたことを、朝光が三浦義村に相談したことからはじまり、景時の行いに怒った義村が決起したことによる。 |
1200年 | 正治2年 1月23日 | 三浦義村の父・義澄が死没。
|
正治2年 2月 | 三浦義村が開基となって、現在の三浦市南下浦金田に、福寿寺を建立。
| |
1202年 | 建仁2年 8月23日 | 三浦義村の娘(後の矢部禅尼《初》)と北条義時の長男・泰時が結婚。翌年、長男・北条時氏が誕生。 |
1203年 | 建仁3年 8月4日 | 三浦義村が、土佐国守護に任命される。 |
建仁3年 9月2日 | 【比企能員の変】 北条政子の命により、三浦義村、和田義盛ら、比企能員一族追討の軍に加わる。比企能員は北条時政に謀殺され、能員の一族は自害する。 後日、このとき病に臥せっていた源頼家の長男で、比企能員の娘《せつ》を母に持つ、一幡も殺害され、頼家の弟・源実朝が第3代将軍(鎌倉殿)に就任する。
| |
建仁3年 11月6日 | 【源頼家の追放】 病から回復したものの伊豆国・修禅寺(修善寺)に追放されていた源頼家から、母の北条政子と源実朝宛に手紙が届く。その返信の使者として、三浦義村が選ばれる。義村は10日に伊豆国から戻り、源頼家の様子を北条政子に報告する。 源頼家は、翌年7月、北条氏の手勢によって殺害される。 | |
1205年 | 元久2年 6月22日 | 【畠山重忠の乱】 鎌倉幕府初代執権・北条時政の命を受けた三浦義村らが、由比ヶ浜で畠山重忠の子・重保を殺害。その後、和田義盛や北条義時らとともに畠山重忠追討へ武蔵国に向かい、二俣川で畠山重忠らを討ち取る。これにより、畠山重忠とその一族は滅亡する。 なお、乱の発端とは直接関係ないが、畠山重忠は、義村や和田義盛ら三浦一族にとって、衣笠城合戦で討死した祖父・三浦大介義明の仇であった。 この直後、畠山重忠排除の首謀者であった北条時政とその妻・牧の方《りく》は、北条政子・義時によって鎌倉を追放され、北条義時が鎌倉幕府第2代執権に就任。
|
1211年 | 建暦元年 10月12日 | 三浦義村が、左衛門尉に任じられる。 |
1213年 | 建暦3年 5月2日 -3日 | 【和田義盛の乱(和田合戦)】 北条義時の挑発を受けて和田義盛が挙兵した旨を、和田義盛の従兄弟であり同族の三浦義村が北条義時に告げる。 和田義盛ら和田一族が挙兵して、御所と北条義時邸を襲撃する。三浦義村も加わる幕府軍の反撃によって和田軍は由比ヶ浜に追い込まれ、安房に逃れた朝比奈義秀らを除き、和田義盛とその一族は討死する。
|
1219年 | 建保7年 1月27日 | 【源実朝の暗殺】 鶴岡八幡宮にて、第2代将軍(鎌倉殿)源頼家の遺児・公暁によって、第3代将軍・源実朝が暗殺される。 その後、公暁は乳母夫である三浦義村を頼るが、義村の討手によって討たれる。
|
承久元年 11月13日 | 三浦義村が従五位下に叙され、駿河守に補任される。 | |
1221年 | 承久3年 5月19日 | 【承久の乱】 後鳥羽上皇が執権・北条義時追討の院宣を発する。三浦義村は、京にいて上皇方に付いた弟・胤義から上皇方に付くよう誘われるが、そのことを北条義時に告げて義時に味方する。 |
承久3年 5月-6月 | 【承久の乱】 北条泰時率いる幕府軍に三浦義村とその子・泰村らが加わり、鎌倉から京へ向けて出撃する。義村ら幕府方は上皇方を破り、義村の弟・胤義は自害する。 義村は幕府の代表として京にとどまり、皇位継承に関わるなどの、戦後処理をする。
| |
1223年 | 貞応2年 4月10日 | 三浦義村が、駿河守を辞任する。 |
1224年 | 貞応3年 6月-7月 | 【伊賀氏の変】 北条義時が急死したことを受けて、義時の後妻・伊賀の方《のえ》とその兄弟・伊賀光宗が、義時の四男で伊賀の方の子・北条政村を執権とし、娘婿・一条実雅を将軍に擁立しようと、政村の烏帽子親である三浦義村に相談する。 この動きを事前に察知した北条政子に問いただされた三浦義村は、北条義時の長男・泰時が執権を継ぐことを認め、政村の処罰も防ぎ、政変を未然に防いだ。これにより、伊賀氏兄弟は配流となった。 |
1225年 | 嘉禄元年 12月21日 | 源氏三代や北条義時亡き後も尼将軍として幕府の実権を握っていた北条政子が死没すると、北条氏執権体制を支える評定衆が設けられ、その11人の一人に三浦義村が選任される。 |
1232年 | 貞永元年 7月10日 | 三浦義村ら評定衆11人が、御成敗式目の制定に際して、起請文に連署する。 |
1238年 | 暦仁元年 2月17日 | 三浦義村は、第4代将軍(鎌倉殿)藤原頼経の入洛に際して、一族を率いて先陣をつとめる。 |
1239年 | 延応元年 12月5日 | 三浦義村、死没。死因は大中風(脳卒中)。 墓所は、現在の三浦市南下浦町金田にあった、義村が開いた福寿寺の塔頭・南向院(廃寺、復元された廟所のみ現存)。
|
三浦義村亡き後の三浦一族のその後
三浦義村の代には、鎌倉幕府内で執権北条氏と肩を並べるほどの勢力となった三浦氏でしたが、義村の子・泰村の代で滅亡してしまいます。
三浦氏の栄華を極めた三浦義村でしたが、皮肉なことに、三浦一族で義村と肩を並べる有力御家人だった和田義盛とその一族や、義村の弟・三浦胤義とその一族などの、同族をも討ち続けたことによって、同時に三浦一族全体の弱体化も招いていくことになりました。
鎌倉幕府の実力者だった三浦義村の死後、三浦氏の勢力拡大を阻止したい北条氏と幕府内で権力を拡大していた安達氏の思惑が一致して、宝治合戦で三浦氏は敗北することになります。最期は、三浦一族が幕府創設前から仕えた源頼朝の法華堂(源頼朝の墓)で、三浦泰村とその一族500余名は自害して、三浦氏宗家(本家)の直系は滅亡しました。
三浦一族 家系図
三浦義村は、三浦氏宗家(本家)の初代とされる三浦為通(村岡為通)から数えて、第6代当主にあたります。
義村の生きた平安時代末期~鎌倉時代初期の三浦一族は北条氏、伊東氏と関係が深く、北条氏は源氏と結びつきが強いため、これらを合わせた家系図をご紹介します(一部省略、諸説あり)。
家系図は、上下左右に続いています。ピンチイン・ピンチアウトやスワイプ/ドラッグなどのマウス操作で、拡大縮小や移動をすることができます。
三浦義村ゆかりの地
次のページでは、三浦義村の鎌倉の屋敷跡と一族の故郷 三浦・横須賀での足跡を紹介しています。
また、横須賀市では、三浦義村ゆかりの地も含む「三浦一族ゆかりの地散策マップ」を公開しています。横須賀市観光案内所などで入手可能な他、下記リンク先からダウンロード可能です。