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泉鏡花と鎌倉・逗子そして三浦半島西海岸の魔所【鎌倉編】星月夜と星あかり

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デビュー作の舞台に鎌倉を選んだ泉鏡花

泉鏡花の処女作「冠弥左衛門」は、次のようにはじまります。

星月夜鎌倉長谷の片傍、権五郎景政が社の境内に、小喧こやかましき力聲ちからごえは、極楽寺近邊きんぺん壯佼わかものども、腕強をすぐりて十五六人・・・

「冠弥左衛門」(泉鏡花,1893)

星月夜」とは、鎌倉極楽寺切通の辺りにあった地名で、鎌倉十井の一つ星ノ井(星月夜ノ井、星月ノ井)が名前の由来とされています。また、「星月夜」は鎌倉を表わす枕詞としても用いられてきました。「星月夜」という言葉自体には、月明かりもなく満天の星が輝く夜という意味があり、秋の季語として用いられてきました。

権五郎景政が社」とは、平安時代に活躍した鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社(権五郎神社)のことです。鎌倉権五郎景政後三年の役で武功を挙げた力自慢の武将で、御霊神社の近くには景政の武勇にちなんだ「権五郎力餅」が名物の老舗和菓子屋「力餅家」が江戸時代から300年以上も続いています。

このように泉鏡花は、デビュー作の舞台として鎌倉を選び、冒頭の一文から現在の長谷坂ノ下界隈の情景や歴史をつぶさに描いてみせています。

極楽寺坂切通・坂の下から見上げる(撮影日:2018.03.28)
極楽寺坂切通・坂の下から見上げる(撮影日:2018.03.28)
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「星あかり」と「星月夜=鎌倉」

尾崎紅葉の作品を読んで感銘を受けた泉鏡花は、紅葉に弟子入りするため、18歳のときに故郷である金沢をあとにして、上京しました。しかし、実行に移す勇気をなかなか持てず、実際に門を叩いて尾崎紅葉に弟子入りを許されたのは、その1年後のことでした。

このとき、1891年(明治24年)7月・8月の2か月間、泉鏡花は友人の医学生とともに、鎌倉・材木座小町大路沿いに建つ妙長寺に寄宿していました。
1898年(明治31年)に発表した短編小説「みだれ橋」は、妙長寺に滞在した経験をもとに書かれた作品です。「みだれ橋」という題名は、妙長寺のすぐ近くにある鎌倉十橋の一つ乱橋に由来します。
妙長寺の境内の前には、「妙長寺と泉鏡花」に関する文学案内板が掲げられています。

みだれ橋」は、寄宿している妙長寺の本堂を閉め出された主人公が、星も消えた晩、乱橋を渡り、海を見ようと由比ヶ浜まで歩いて行くところからはじまります。そこで不思議な体験をして妙長寺まで舞い戻ってきた主人公は、本堂の蚊帳の中ですやすやと寝ている自分を見つける・・・というお話です。

みだれ橋」は、妙長寺から由比ヶ浜材木座海岸)までの一本道や夜の海の雰囲気を知っていると、より解像度高く読むことができます。一人、暗闇の夜の海に佇むと、特別な感覚に包まれるものです。もちろん、明治時代当時と街並みは変わっていますが、真夜中の雰囲気は大きく変わらないはずです。

この「みだれ橋」は、後に「星あかり」と改題されます。泉鏡花の処女作「冠弥左衛門」冒頭に出てくる、鎌倉を表わす枕詞「星月夜」に通じる題名でもあります。
この短編小説は「星あかり」が消えた後の物語です。正確には、本堂から閉め出されたと気づいた直後までは、花筒の腐水に映る星が、間接的には見えていました。けれど、これは幻想の世界なので、実際の空には星があったのかも分かりません。

この星あかりが消えた世界には、人の姿が登場しません。ぐっすりと眠っている人以外は。海へ向かう途中、前方から荷車を曳いた百姓のような姿が近づいてきましたが、これも、すれ違う前に曲がって、突如消えてしまいます。
そればかりか、主人公の描写も、どこか人間のようではありません。

物語の最後で視点が変わり、今度は本堂の蚊帳の中で眠っていた主人公が、由比ヶ浜から死にそうになって帰って来た「自分」の姿を探しますが、見つかりません。主人公が自分と同一なのかもよく分からないまま、正気を失いかけている自分に気づく描写で終わります。

尾崎紅葉の門を叩けずに悶々と過ごしていたであろう、鎌倉滞在時代の泉鏡花。その実体験が根底にある「星あかり」は、「星月夜鎌倉」とのダブル・ミーニングなのかもしれません。

泉鏡花の小説に限った話ではありませんが、明治時代くらい昔の小説になると、現代の小説と同じように読み進めることが難しい面もあります。その点、この「星あかり」は、読みやすさや物語の長さ、そして鎌倉を舞台にしている点で、鎌倉・三浦半島に暮らす人や馴染みがある人にとっては泉鏡花入門としておすすめの小説です。

妙長寺・山門(撮影日:2023.10.19)
妙長寺・山門(撮影日:2023.10.19)
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泉鏡花&鏑木清方のゴールデンコンビ

かつて若き泉鏡花尾崎紅葉に憧れたように、紅葉のもとで人気作家となった泉鏡花に憧れを抱く若者も現われるようになります。その一人が日本画家の鏑木清方です。泉鏡花の書く、とくに女性の着物の描写は繊細そのものですが、鏑木清方もまた美人画の名手と呼ばれるようになります。

10代のころに泉鏡花の作品を読んで感銘を受けた鏑木清方は、鏡花の作品に挿絵を描くことを目標にして、鍛錬を積み重ねていました。そして、20代前半に鏡花と出会う機会を得ると、鏡花の作品に念願だった挿絵を描くようになります。
以降、泉鏡花鏑木清方は、同じく鏡花と親しくした日本画家の小村雪岱とともに、泉鏡花の美しくも妖しい世界観を視覚的にも拡張する、ゴールデンコンビとなりました。

鏑木清方鎌倉・雪ノ下の旧居跡に開館した鏑木清方記念美術館では、1年に一度程度、文学に関する展覧会が開催されます。その際、清方泉鏡花に提供した挿絵や、鏡花の作品に取材した日本画が公開されることがあります。
泉鏡花の直接的なゆかりの地ではありませんが、鏡花にもゆかりが深い鎌倉で、視覚的に鏡花の世界を体験できる貴重な場所です。(常設展示ではありません)
館内に再現された鏑木清方の作業部屋には、泉鏡花に関する品も見られます。

鏑木清方記念美術館・御著作所(アップ)(撮影日:2023.10.03)
鏑木清方記念美術館・御著作所(アップ)(撮影日:2023.10.03)

【逗子編】まんだら堂やぐら群で見る春の白昼夢

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