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妙長寺 | 鎌倉・材木座の日蓮の伊豆法難や泉鏡花「星あかり」ゆかりの寺院

妙長寺・境内前の日蓮聖人像と山門と桜(撮影日:2018.04.01) 鎌倉
妙長寺・境内前の日蓮聖人像と山門と桜(撮影日:2018.04.01)

妙長寺みょうちょうじは、若宮大路の東側を並行して走る小町大路沿いに建つ日蓮宗の寺院です。境内の前に建つ日蓮聖人の銅像が目をひきます。
現在の妙長寺材木座の海岸線から離れた場所にありますが、以前は由比ヶ浜沼ヶ浦(現在の材木座海岸近く)にありました。

沼ヶ浦は、1261年(弘長元年)、日蓮宗の宗祖・日蓮が、伊豆流罪(伊豆法難)の際に鎌倉から伊豆・伊東に向けて出港した場所です。その際、日蓮は、伊東沖の俎岩まないたいわに置き去りにされましたが、地元・川奈の漁師・舩守弥三郎に救われました。
この漁師の子で日蓮の弟子となった日実が、鎌倉の伊豆法難ゆかりの地である沼ヶ浦に堂宇を建立したのが妙長寺のはじまりと伝えられています。

山号海潮山
宗派日蓮宗
寺格
本尊三宝祖師
創建1299年(正安元年)
開山日実
開基不詳

妙長寺は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家・泉鏡花いずみ きょうかゆかりの寺院です。境内の前には妙長寺泉鏡花に関する文学案内板が掲げられています。
泉鏡花は、尾崎紅葉に弟子入りしようと上京しましたが、その直前の1891年(明治24年)7月・8月の2か月間、妙長寺に滞在していました。1898年(明治31年)に発表した短編小説「みだれ橋」(後に 「星あかり」 と改題)は、妙長寺に滞在した経験をもとに書かれた作品です。「みだれ橋」という題名は、妙長寺のすぐ近くにある鎌倉十橋の一つ乱橋、もしくは、かつて妙長寺周辺にあった「乱橋」(乱橋村、乱橋材木座村)という地名に由来します。

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津波の被害によって現在地に移ってきた妙長寺

妙長寺・山門(撮影日:2023.10.19)
妙長寺・山門(撮影日:2023.10.19)

その後、妙長寺は、津波によって堂宇が流出したため、材木座海岸から1kmほど内陸にあたる現在地の、円成寺(圓成寺)跡に移ってきたと言います。妙長寺は、その山号「海潮山」が示すとおり、海のすぐ近くにあったと見られ、被害も大きかったものと思われます。

円成寺は、江戸時代前期の寛文の頃に、不受不施義日蓮の教えの一つで、法華経を信仰しない者から施しを受けず供養も施さないこと)を唱えたことによって廃絶したとみられています。

妙長寺・本堂(撮影日:2023.10.13)
妙長寺・本堂(撮影日:2023.10.13)
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伊豆法難ゆかりの相輪塔と石舟

妙長寺・伊豆法難記念相輪塔(撮影日:2023.10.19)
妙長寺・伊豆法難記念相輪塔(撮影日:2023.10.19)

鎌倉の伊豆法難ゆかりの地である妙長寺の境内には、伊豆法難記念相輪塔が建っています。また、相輪塔のたもとには、石造の法難御用船も置かれています。
法難御用船は、伊豆法難の際に日蓮が乗った鎌倉幕府の御用船を模したもの(6分の1の縮尺)で、出港の際、弟子の日朗がお供しようと願いでたもののかなわず、幕府の役人に船をこぐ櫂で打たれて右腕を骨折させられたという逸話が残されています。

妙長寺・法難御用船(6分の1スケールの模型)(撮影日:2023.10.19)
妙長寺・法難御用船(6分の1スケールの模型)(撮影日:2023.10.19)
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鱗供養塔と石塔婆

妙長寺・鱗供養塔と石塔婆(撮影日:2023.10.19)
妙長寺・鱗供養塔と石塔婆(撮影日:2023.10.19)

伊豆法難記念相輪塔法難御用船のとなりには、鱗供養塔が建っています。
鱗供養は、鮮魚を扱う者とともに海の生き物への感謝と、豊漁と海の安全を祈願するための法要です。妙長寺の住職が材木座海岸沖合の船上で読経し、生きた魚たちを海に放ち慰霊する放生会も行われます。この妙長寺鱗供養は明治にはじまり、一度途切れましたが、百年祭を機に鎌倉魚商組合によって再開され、以後10年に1度執り行われています。
鱗供養塔石塔婆は、妙長寺檀家の草柳家によって建立されたもので、現在の石塔婆の建立への建て替えも当家によって行われています。

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浄い修行の菩薩・浄行菩薩

妙長寺・浄行菩薩(撮影日:2023.10.13)
妙長寺・浄行菩薩(撮影日:2023.10.13)

妙長寺本堂の前には浄行菩薩が安置された小さなお堂があります。浄行菩薩は、「浄い行い(きよいおこない)」浄い修行の菩薩で、汚れを洗い清めて、心身が澄み、美しく清らかになるはたらきがあると言われています。
古来より、参拝者は、浄行菩薩像の身体をなでたり水をかけたりして洗い清めながら、自分の身体の良くないところが治るようにお祈りしたと言います。

水に関係のある菩薩様が祀られているのが、水と関係の深い海潮山妙長寺ならではです。

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妙長寺周辺の見どころ

材木座周辺

来迎寺(材木座)
来迎寺は、鎌倉幕府創設の礎となった三浦大介義明の霊を弔うために、源頼朝が開基となって能蔵寺を建立したのがはじまりです。はじめは真言宗の寺院でしたが、頼朝の死後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改...
五所神社
五所神社ごしょじんじゃは、1908年(明治41年)に、旧乱橋みだればし村と旧材木座ざいもくざ村にあった5ヵ所の神社を合祀して、旧乱橋村の鎮守・三島神社があった場所に、旧材木座村の鎮守・諏訪神社の...
由比若宮(元八幡、元鶴岡八幡宮)
由比若宮ゆいわかみや(元八幡)は、源頼朝の5代前の祖先にあたる源頼義が、京都の石清水八幡宮から河内源氏の氏神である八幡神を勧請して鎌倉の由比郷に祀ったのがはじまりです。戦の鎮圧に中心的役割を果た...
光明寺
光明寺は、材木座の海岸からほど近い場所にある浄土宗の大本山です。鎌倉でも規模が大きい寺院の一つに数えられますが、他の大寺院の多くは内陸部の谷戸にあり、これほど海の近くにある大寺院は見られません。...
材木座海岸(材木座海水浴場)
材木座海岸ざいもくざ かいがんは、鶴岡八幡宮や鎌倉駅方面から若宮大路を南に下った先の、向かって左側に広がっている海岸です。鎌倉の中心部を南北に貫いている若宮大路は、海に近くなると滑川なめりがわが並行...
由比ヶ浜海岸(由比ガ浜海水浴場)
由比ヶ浜海岸ゆいがはま かいがんは、鶴岡八幡宮や鎌倉駅方面から若宮大路を南に下った先の、向かって右側に広がっている海岸です。鎌倉の中心部を南北に貫いている若宮大路は、海に近くなると滑川なめりがわが並...

小町大路・大町大路周辺の日蓮ゆかりの寺院

本興寺・日蓮辻説法の碑
本興寺ほんこうじは、鎌倉幕府滅亡後の1336年(延元元年)に、日蓮聖人の直弟子である天目が、かつて、日蓮が辻説法をしていた小町大路沿いに創建した寺院です。この辺りは、ともに鎌倉幕府によって整備さ...
妙本寺・比企一族の墓
妙本寺みょうほんじは、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の有力御家人・比企能員ひき よしかずの屋敷跡に日蓮が開山となって創建された、日蓮宗最古の寺院の一つです。日蓮は比企氏の屋敷があった比企谷ひきが...
本覚寺(東身延)
本覚寺ほんがくじは、源頼朝が幕府の裏鬼門の地に創建して、日蓮も一時滞在していた夷堂えびすどうがあった場所に建つ、日蓮宗の寺院です。日蓮宗総本山の身延山から日蓮の遺骨が分骨されているため、「東身延...
長勝寺
長勝寺ちょうしょうじは、鎌倉時代の中頃に、日蓮宗(法華宗)の宗祖である日蓮が、鎌倉で布教を開始した際に、この地の領主で、日蓮に深く帰依した石井長勝が自邸に小庵を建てて寄進したのがはじまりと伝わる...
安国論寺
安国論寺あんこくろんじは、鎌倉時代の中頃に、日蓮宗(法華宗)の宗祖である日蓮が、鎌倉で布教を開始した際に草庵を結んだ場所に建てられた寺院です。日蓮は、安房国(現在の千葉県、房総半島南部)の清澄寺...
妙法寺(苔寺)
妙法寺みょうほうじは、鎌倉時代の中頃に、日蓮宗(法華宗)の宗祖である日蓮聖人が、鎌倉で布教を開始した際に拠点として選んだ松葉ヶ谷まつばがやつに、小庵を結んだ地とされています。南北朝時代の1357...

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【2023 No.12】特集 | 泉鏡花と鎌倉・逗子そして三浦半島西海岸の魔所

DATA

住所 鎌倉市材木座2-7-41
アクセス
行き方

●徒歩の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、徒歩約20分

●バス利用の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「九品寺循環」行きで『五所神社』下車徒歩約3分、または、「小坪経由鎌倉駅」行きで『九品寺』下車徒歩約5分

駐車場 なし
料金

100円

電話番号 0467-22-3572
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