秋谷を舞台にした亡き母への憧憬が主題の「草迷宮」
泉鏡花は幼いころに母親と死別しました。鏡花の母の名前は、妻「すず」と同じ呼び方の「鈴」でした。
亡き母への追慕や母性愛への憧れは、終生、泉鏡花が書く小説の主題の一つでした。自身の理想像を反映するように、物語の核となる女性の描写を、とても丁寧に描きます。
葉山や横須賀・秋谷を舞台とした「草迷宮」も、そのような小説の一つです。
主人公の小次郎法師は、諸国一見の旅の途中に、秋谷の海岸沿いにある茶店に立ち寄りました。そこで、小次郎法師は、店の老婆から、一時に5人が命を落として、誰も寄りつかなくなった、「黒門」と呼ばれる村の庄屋の屋敷の話を聞き、回向(法要を営んで、故人を追善供養すること)に向かいます。
黒門には、葉越明という先客が居候していました。葉越明は幼いころ聴いた、母が唄ってくれた「手毬唄」の文句(=母の声、面影)を探しに、全国を旅してまわっていると言います。
「夢とも、現とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂えぬ――そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然とする、胸を掻るような、あの、恍惚となるような、まあ例えて言えば、芳しい清らかな乳を含みながら、生れない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬れて、それを聞きたいと思いますんです。」
「草迷宮」(泉鏡花,1908)
この数分時の言の中に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音、木の葉の囁きまで、稲妻のごとく胸の裡に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯と金字紺泥に瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。
「して、その唄は、貴下お聞きになったことがございましょうか。」
「小児の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
年を取るに従うて、まるで貴僧、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
葉越明は、旅の道中、この近くの小川で綺麗な手毬を拾ったことから、探している手毬唄を知る婦人がこの空き屋敷にいるように思えて、黒門の一室を借りたのだと言います。
「草迷宮」の物語は、このような話を根底に、人を避けて暮らしていた悪魔の秋谷悪左衛門と葉越明の幼馴染で神隠しにあった菖蒲が黒門で引き起こす怪奇現象を交えながら進んでいきます。
怪奇現象が起きるのは泉鏡花の物語では定番ですが、求めてはいけないものを求めようとしていることの暗示として描かれている場合が多いです。「草迷宮」では、葉越明の母を追い求める思いが強すぎるがために起きた怪奇現象と言えるのではないでしょうか。
魔所として描かれた秋谷の名所
秋谷をよく取材した泉鏡花
小説「草迷宮」は、2度目の逗子滞在時の、それも後半に発表されています。泉鏡花は、逗子を拠点にして、三浦半島を南の方へも下って、ときに取材に、ときにリフレッシュに、葉山や横須賀などへも訪れていたことでしょう。
その証拠に、「草迷宮」では、秋谷周辺に実在する場所や伝承などが、物語の中に実に巧みにちりばめられています。秋谷のことをよく知る人がこの小説を読むと、まるで秋谷が本当に「魔所」なのではないかという錯覚に陥ってしまうかもしれません。逆を言えば、秋谷のことをよく知れば、より深く物語の迷宮に入り込むことができるとも言えます。
魔所1:「大崩壊」こと長者ヶ崎
小説「草迷宮」の主な舞台となるこの秋谷は、三浦半島西部の相模湾沿いに位置していて、現在の住所は横須賀市秋谷です。1889年(明治22年)までは三浦郡秋谷村という独立した村でしたが、泉鏡花が逗子に滞在していた当時は、三浦郡中西浦村(後の、西浦村、大楠町)の大字でした。
秋谷はまた、葉山と横須賀の境にあるまちでもあります。正式な地名ではありませんが、近年、葉山の人気の高さやイメージの良さを意識して「南葉山」を称する施設や物件が多く見受けられるのも、この秋谷です。
実際には、葉山と秋谷の間には、物理的に、明確な境界線が存在します。その場所こそが、「草迷宮」の冒頭で魔所として語られる、「大崩壊」こと長者ヶ崎です。粗いのこぎりの歯を逆さまにしたように、大きく切り立った崖が海に突き出ていて、絵に描いたように分かりやすい「魔所」っぽい場所です。秋谷には、「大崩」という地名(字)も実在しています。
この場所は、戦国時代の古戦場でもあります。
戦国時代に三浦半島を含む相模国東部を領していた武将・三浦道寸(義同)は、西から勢力を拡大して来た北条早雲(伊勢宗瑞)に攻められて、現在の伊勢原市にあった岡崎城から三浦半島へと後退していきます。その途中、道寸は、切り立った崖が続く要害の地であった大崩を戦の地に選びました。戦力で劣る道寸には、このような特殊な地形でしか勝機を見出すことができなかったのでしょう。
しかし、結果的に三浦道寸らは敗れ、最後は、油壺の新井城での3年もの籠城戦の末、一族もろとも滅亡してしまいます。
今では三浦半島西海岸を代表する景勝地として人気の長者ヶ崎も、血なまぐさい歴史を持つ場所です。小説「草迷宮」でこのような背景が語られることはありませんが、泉鏡花も、魔所の入口として、このような歴史を意識していたのかもしれません。
魔所2:久留和の子産石
秋谷の久留和海岸には、子を産み出す石の伝承があります。浜辺に転がる丸い大小の石がそれらであるとされています。この「子産石」を撫でた手で自分のおなかをさすると、子に恵まれるとか、安産になると言われていて、国道134号沿いにはその象徴として大きな石が祀られています。
小説「草迷宮」ではこの子産石の伝承がそのまま引用されています。物語の前半で主人公の小次郎法師が立ち寄り、店の老婆の話に耳を傾ける場面では、この近くに店を出していることから、朝晩に拾っておいた子産石をお土産がてらに客に渡しているということが、老婆の口から語られます。
しかし、当の老婆には子どもはおらず、村の人たちからは、「人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ」と言われているのだと言います。
子を産む石というのは母親の暗喩であるとも受け取れますし、丸みを帯びた子産石は「草迷宮」のなかで重要なキーワードとなる、葉越明が小川で拾ったという「手毬」にも通じるものがあります。それを裏付けるような次のような描写も見られます。
爺さんに強請って、ここを一室借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高い、その婦人の心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。
「草迷宮」(泉鏡花,1908)
あるいはこれを、小川の裾の秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩燦爛として迸る。この色が、紫に、緑に、紺青に、藍碧に波を射て、太平洋へ月夜の虹を敷いたのであろうも計られません、
小説「草迷宮」の中には、「秋谷明神」がたびたび登場します。しかし、現在、秋谷には「明神」と呼ばれる神社は存在していません。
モデルがあるとすれば、久留和熊野神社であると考えられます。やはり物語後半にひんぱんに登場して秋谷には現存していない「霞川(あるいは、湯川)」は、「明神の下あたりから次第に子産石の浜に消えて、」という描写があることから、子産石の伝承がある久留和海岸近くの久留和熊野神社である可能性が高そうです。久留和熊野神社は、かつては「熊野権現」と呼ばれていたそうで、「草迷宮」ではあえて「権現様」ではなく「明神様」に差し替えて使ったのかもしれません。
なお、現在、秋谷には、久留和熊野神社の他に旧秋谷村の村社だった秋谷神明社(秋谷神社)が鎮座しています。秋谷神明社の鳥居は「神明鳥居」なのに対して、久留和熊野神社の鳥居は「明神鳥居」です。
しかし、秋谷神明社には両稲荷社や八坂神社、諏訪社、浅間社など合祀されている神社も多いことから、合祀される前の神社に「明神様」と呼ばれていた神社があったということも考えられます。
魔所3:若命家長屋門
悪魔の秋谷悪左衛門と神隠しにあった菖蒲によってさまざまな怪奇現象が引き起こされる「黒門」こと村の庄屋の鶴谷邸のモデルは、立派な長屋門が現存する、旧秋谷村の名手を務めていた若命家の屋敷であるとされています。
若命家の長屋門は江戸末期の建築と伝えられていて、外壁は漆喰で、腰の部分は幾何学模様のデザインが特徴的な「なまこ壁」と呼ばれる工法が用いられています。門扉には欅材が使用されています。屋根は、もともと茅葺きでしたが、大正時代の関東大震災後に瓦葺きとなっています。
若命家長屋門の内部は通常非公開ですが、外観はいつでも見学することができます。
まだ人家や店舗がそれほど多くなかった、泉鏡花が「草迷宮」を書いた当時は、秋谷でもっとも象徴的な場所の一つだったであろうことは容易に想像ができます。
もちろん、現実の若命家長屋門で怪奇現象が起きるような事実はないのでしょうけれど、大きく立派な門と壁で外界と隔てられた屋敷は、神秘のベールに包まれているようで、想像力をかきたてられます。
泉鏡花は、物語の中で、一時に5人が命を落として誰も寄りつかなくなり、草が生い茂るばかりのこの「黒門」を、母が唄ってくれた手毬唄を追い求める葉越明が迷い込んだ「迷宮」として描いているように受け取れます。
しかし、ここで言う「迷宮」とは、物理的な迷宮と言うよりは、亡き母の憧憬から抜け出せない葉越明の心の葛藤を表現しているのでしょう。