泉名月は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家・泉鏡花の姪にあたり、泉鏡花の研究家であり、自身も作家として活動していました。父は鏡花の弟で、やはり作家でもあった、泉斜汀です。
泉鏡花没後、泉名月は鏡花の妻・すずのもとに養女として迎えられました。鏡花は名月がまだ6歳になる直前に亡くなっていますので、名月が研究者として直接、鏡花を取材したり作品の解説を受けたりと言うことはありませんでした。しかし、同居するすずから聞いた鏡花や家族にまつわる話をもとに、回想記としてまとめるなどしています。
すず亡き後も、母・サワとともに、鏡花の遺品や原稿を保管したり、著作権継承者として作品の刊行に携わるなど、泉鏡花の芸術的とも言える文学を後世に伝えるために尽力しました。
泉名月は、すずの没後から晩年まで、泉鏡花ともゆかりが深い逗子・山の根で暮らしました。その住居跡には、泉名月の功績をたたえる石碑が建てられています。
寄り添うように建つ泉名月住居跡の碑と泉鏡花句碑
泉名月住居跡の碑のすぐ隣りには、寄り添うように、泉鏡花の句碑が建てられています。
幻想小説のパイオニアとして知られる泉鏡花ですが、俳句というミニマムな文学でも、その優れた才能を発揮しています。
わが恋は 人とる沼の 花あやめ
泉鏡花
「花菖蒲」は、泉名月が亡くなった、夏の季語です(2008年7月6日没)。
また、創作の前後関係は定かではありませんが、泉鏡花が逗子に滞在していた際に執筆した小説「草迷宮」(1908年(明治41年)発表)のキーパーソンである「菖蒲(あやめ)」も連想させます。
一般的には、この俳句自体は、恋は底なし沼のようとか、禁断の恋を詠ったものであると言った解釈が多いようです。