白山神社は、三浦海岸の南に続く菊名海岸近くに鎮座する旧菊名村の鎮守です。境内の山すそには「切妻造妻入形横穴古墳」(三浦市指定重要文化財)があります。
白山神社のすぐ近くには、谷戸らしい谷戸に畑が広がっていて、台地の上や広い盆地に耕作地が多い三浦市では意外とめずらしい景観が見られます。この谷戸を潤している菊名川は、白山神社の前で仲川と名前を変えて、菊名海岸に注ぎます。
創建当初の白山神社は、この谷戸の南側の山中に鎮座していましたが、江戸時代前期の1684年(貞享元年)、菊名の村民によって現在の場所に遷座されました。
それ以前の白山神社の由緒は詳しく分かっていませんが、主に戦国時代に活躍した相模三浦氏に仕えた武将・菊名氏の守護神として祀られたと伝えられています。
主祭神 | 伊邪那岐尊 伊邪那美尊 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1684年(貞享元年) ※現在の場所に社殿が建立された年 |
祭礼 | 1月1日 歳旦祭 3月23日 祈年祭 10月23日 例大祭【あめや踊り】 12月1日 年祭(星祭) 12月7日 新嘗祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
白山神社は、20社近くにも及ぶ、三浦半島南部の多くの神社の兼務社となっている、地域の中心的な神社です。そのため、兼務社の祭礼には白山神社の神職が出向いて神事を執り行いますし、白山神社は兼務社の御朱印の授与所にもなっています。
また、白山神社の例大祭が執り行われる10月23日の夜には、神社境内左手にある菊名区民会館前広場にて、「菊名の飴屋踊り」として神奈川県指定無形民俗文化財に指定されている「あめや踊り」が奉納されます。
INDEX
相模三浦氏の家臣・菊名左衛門重氏
かつて白山神社のあった仲里には菊名氏の別荘があった場所と言われていて、現在は、1922年(大正11年)にこの近くから移された、菊名左衛門重氏の墓が山上に建っています。
菊名左衛門重氏は、1894年(明治27年)に出版された村井弦斎の小説「桜の御所」の登場人物として有名になった武将ですが、明治維新以前の史料にはその名前が見られないことから、実在した人物かどうか定かではありません。
戦国時代の争いで相模三浦氏が後北条氏(小田原北条氏)に敗れて滅亡すると、相模三浦氏の家臣である菊名氏も凋落し、白山神社も荒廃していったと言います。
白山神社に集められた菊名村の神様たち
その後、江戸時代前期に菊名村の村民によって再建された白山神社の社殿は、何度か改築や修復をくり返してきましたが、1970年(昭和45年)に現在の鉄筋コンクリート造の社殿に建て替えられました。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、明治時代に神仏分離令が発令されるまでの白山神社は、白峰山大宝院(現存せず)という寺院に管理されていました。その後、国の一村一社の政策により、1908年(明治41年)、菊名村に鎮座していた神明社(字稲荷小路)、日枝神社(字仲里)、水間神社(字大楠狩)、熊野神社(字神台)が白山神社に合祀されました。
このため、白山神社には、主祭神である伊邪那岐尊と伊邪那美尊(ともに、白山神社と旧熊野神社)の他に、天照皇大神(旧神明社)、大山咋尊(旧日枝神社)、水歯別尊(旧水間神社)も祀られています。
なお、水間神社は、白山神社の境内前から続く谷戸奥の菊名川上流に、現在も社殿が祀られています。
白山神社(菊名)の境内社
白山神社の社殿左手には、境内社の、浅間神社、稲荷神社、金比羅神社が祀られています。
切妻造妻入形横穴古墳(三浦市指定重要文化財)
白山神社の境内社が建ち並ぶ山すそには、切妻造妻入形横穴古墳があります。
鎌倉周辺で多く見られる「やぐら」(中世の横穴式の墳墓または供養の場)は、鎌倉時代中期から室町時代にかけて造営されたものが多いとみられていますが、白山神社の切妻造妻入形横穴古墳は奈良時代のものとされています。
中世以前の横穴式の古墳としては、逗子・沼間の桐ヶ谷家に先祖の墓と伝わる先祖やぐら横穴などがあります。この他にも、一般的に中世のやぐらとされているものでも、それ以前に造営されたものを再利用した横穴もあると考えられます。
横穴の内部は屋根の部分がとくに特徴的で、切妻造と言われる開いた本を伏せたような二つの傾斜を組み合わせた屋根に、棟や垂木が立体的に浮き彫りされています。また、内部の壁面には、朱色で塗られた跡がかすかに残っています。
このように、古墳名になっているように、切妻造の屋根を持つ妻入形の家屋を模した、横穴としては複雑に造り込んだものであることから、この辺りを支配していた豪族の古墳とみられています。
白山神社の切妻造妻入形横穴古墳と同じように、内部が家屋のように装飾された横穴としては、鎌倉・山ノ内の朱垂木やぐらがあります(朱垂木やぐらの内部は、仏教建築を模して造られたとされています)。
おそらく江戸時代には、内部壁面の朱色の塗装は、もっと色濃かったことでしょう。
江戸時代前期に白山神社の遷座地としてこの場所が選ばれたのは、江戸時代の菊名の村人たちがすでに、この古墳を特別な、神聖な場所と認識していたからだろうと考えられます。